さて、ここまでの考察を踏まえた上で、最初の
「逃げ切り」記事に戻りたい。宮原記者はこれを「ストレートニュース」と位置付けた。しかし、果たしてこれは「ストレートニュース」なのだろうか。
まず、「事実の記述」とは言えない記述がある。
「
野党は、答弁を不安視される首相に照準を合わせ追及する方針だ」「自民党は当初、学術会議を扱うことに慎重だったが、国民の批判は広がっていないと判断した模様だ」「一方、野党は、政権を現状では追い込むには至らないが、首相の答弁ぶりは批判対象になりうると考える」(
毎日新聞)。
これらは与野党の関係者の発言や文書をそのまま紹介したものではなく、記者がつかんだ「感触」を文章化したものだろう。その意味で、厳密な形での「事実の記述」ではない。ただし、その「感触」の裏付けとなりそうな言葉は紹介されている。
“
自民党幹部は「事務所に批判の電話も少ない」と述べ、「逃げ切り」に自信を示す。”
“
野党関係者は「首相の不誠実な答弁ぶりを有権者に伝えられれば、十分政権へのダメージになる」と指摘する。”
というのがそれだ。
それぞれのカギカッコの中は、それぞれの人の実際の発言であると思われ、それらの発言から上記のような「感触」をつかんだものと思われる。
しかし問題なのは、これがいずれも「自民党幹部」「野党関係者」と、
匿名発言であることだ。
匿名発言を報じることの問題は、
第6回で取り上げた。匿名であるがゆえに、発言者はその発言の責を負わずに済む。読者は、誰がそう語ったのか、知ることができない。
さらに
「自信を示す」という言葉遣いに注目したい。「事務所に批判の電話も少ない」「逃げ切り」というこの「自民党幹部」の発言は、本当に「自信」の表れなのだろうか。「自信」の表れではなく、逆に、虚勢を張って、何も問題ないかのように装っているのかもしれない。ここにもやはり、記者がつかんだ「感触」が反映されているように思うのだ。
「ストレートニュース」として「事実」だけを書くならば、「自信を示す」という表現は不適切だ。「
自民党幹部は『事務所に批判の電話も少ない』と述べ、『逃げ切り』を口にした」とするなら、「事実」だけになる。
このように書けば、その「逃げ切り」という言葉をどう受け取るかは、読者に委ねられる。そのほうが、「不誠実だ」「許されることではない」と読者が受け取る書き方にもなりうる。
「事実」の書きぶりの中に「批判」を込めることができるのだ。なのに、「『逃げ切り』に自信を示す」と書くと、そこには
「自民党はこのまま逃げ切るだろう」という記者の情勢判断が反映されているように見える。だからこそ、「そんな身勝手な『逃げ切り』を毎日新聞は許すのか」という批判を招くのだろう。
この「自信を示す」のように、記者の「感触」を織り込んだような表現が、国会をめぐる報道では目立つ。産経新聞の下記はその露骨な例だ。
●
首相「『全集中の呼吸』で答弁」に乱れも- 産経新聞 2020年12月6日
この記事にはこういう記述がある。
“
臨時国会の論戦では、野党が日本学術会議の会員任命見送りや安倍晋三前首相の「桜を見る会」に絡む問題への攻勢を強めた。しかし、首相は安全運転に徹し、答弁原稿に目を落とす姿が目立った。”
「安全運転」とは何を意味するのか。失言をしないということなのか。他にも「野党の挑発にも淡々とした答弁で対応した」「冷静な答弁ぶりも際立つ」などとあり、「菅首相の答弁は野党の挑発に乗らない安定したものだった」という
「評価」がこの記事には織り込まれているように見える。
ここまで露骨ではないが、しかし、下記の毎日新聞の記事も似たような部分がある。
●
与党、菅首相答弁減らし成果 野党追及は決定打欠く 国会閉幕 – 毎日新聞 2020年12月4日
“
4日に事実上閉幕した臨時国会は政府・与党が会期を41日間に絞り、菅義偉首相の出番を極力減らすことで、国会論戦の初陣に臨んだ首相の防護に徹した。野党は安倍晋三前首相側の「桜を見る会」前夜祭費用補塡(ほてん)問題などで政権を追及したが、決定打を欠いた。野党は次期衆院選をにらみ、今後の閉会中審査や年明けの通常国会で追及を継続する構えだ。”
「初陣」「防護」「決定打を欠いた」などと、まるで対戦ゲームのようだ。国会審議は、単に支持率争いの場なのか?
「
首相の不誠実な答弁ぶりを有権者に伝えられれば、十分政権へのダメージになる」という前述の宮原記者の記事にあった「野党関係者」の発言も、支持率争いや政局がらみの発言だ。
実際にそういう発言をした野党議員はいたのだろうが、なぜそういう声をここで拾って紹介するのか。それは記者が、というよりは
政治部の国会報道が、「与野党攻防」として国会の場を描くことを「スタンダード」としているからだろう。しかし、それでよいのか。
国会を支持率争いや政党の存在感を高めるための場や敵失をねらう場と捉えるのではなく、
議論の場として捉え、論点を軸に報じることこそを「スタンダード」にすることはできないのか?