関電資金還流問題で飛び交う「元助役が交通遮断した」論を航空写真と地形図で検証する

原発誘致から3年後。急速に進む道路整備

 1965年の高浜町による原子力発電所誘致から3年経過した時点、1968年になりますと、音海半島の道路整備が急速に進み始めます。とくに田ノ浦周辺には重機材が入り盛んに工事を行っています。  大飯発電所の場合、原子炉設置認可の3年ほど前から準備工事と称して11キロに渡る取り付け道路の新規建設工事を始めていますので、高浜でも同様な事が行われていたものと思われます。  特筆すべきは、音海地区で近代的港湾施設の建設がはじめられており、これによって陸路二系統、海路一系統で合計三系統の独立した動線が確保されつつあることです。
1968年の田ノ浦(高浜発電所)への動線

1968年の田ノ浦(高浜発電所)への動線
国土地理院1/25,000地形図(筆者による加工あり)

 次は1969年です。この5月に一号炉設置申請、12月に設置許可が下りて12月26日に本格着工しています。従って、1969年12月25日までは、あくまで準備工事です。ずいぶん派手にやっているなと思いますが、電力会社による事前調査に合格していれば設置審査もすんなり合格出来た時代なのでしょう。  商用原子力利用の古き良き時代を感じますが、その時代の原子炉が三基まとめて過酷事故を起こして爆発したり破裂したのですからやはり原子力規制の特徴であるバックフィットはきわめて、きわめて重要です。  1969年では、まだ準備工事の段階ですが、音海・田ノ浦間の道路改良が着々と進んでいます。また、音海の内浦港建設も進んでおり、木材の荷役が始まっています。  この前年の1968年11月9日に音海に本社を置く日本海港運株式会社が創業し、木材をはじめとした輸出入をはじめています。結果、保税蔵置場(保税倉庫)が置かれています。  高浜発電所誘致前には、難波江から神野を経て塩汲峠に至る道が内浦湾沿岸開発の主流だったものが、高浜発電所誘致後は、難波江から小黒飯を経て田ノ浦へ、音海から田ノ浦へと開発の主流が変わったことが分かります。  そもそも、田ノ浦ですから、田んぼのある湾処ということで、このあたりでは人の住まない平地という地名だったのですが、高浜発電所誘致によって内浦湾の開発中心となったわけです。これを見て、道路の無かった大島の住民が大飯発電所誘致に動いたのも当然でしょう。
1969年の田ノ浦(高浜発電所)への動線

1969年の田ノ浦(高浜発電所)への動線
国土地理院1/25,000地形図(筆者による加工あり)

田ノ浦隧道開通で音海・田ノ浦間2011年と同じ状態に

 高浜発電所着工後の1970年になると、一挙に土木工事が本格化しました。音海から田ノ浦までの道路拡幅は全域にわたり、小黒飯から田ノ浦までの道路改良も着々と進んでいます。  この年に高浜発電所敷地を迂回する田ノ浦隧道が開通し、音海・田ノ浦間の道路も2011年とほぼ同じ状態になっています。  なお、国道27号線から三松を経て難波江へ至る経路に住宅地を通る箇所と岬越えの線形の悪い箇所があますが、1970年8月開通の県道21号線白浜トンネルが開通し、三松・田ノ浦間の動線は、ほぼ完成しました。  舞鶴市から塩汲峠、神野のを経た動線の整備も盛んで、高浜発電所建設開始時にはすでに陸路二系統、海路一系統の合計三系統の概ね独立した動線が確保されていたことが分かります。
音海半島・内浦湾全体19700501国土地理院撮影

音海半島・内浦湾全体1970/05/01国土地理院撮影
この写真では、舞鶴市から塩汲峠を経た動線含め、すべての動線が撮影されている。
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1970年の田ノ浦(高浜発電所)への動線

1970年の田ノ浦(高浜発電所)への動線
国土地理院1/25,000地形図(筆者による加工あり)

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