教育勅語はどのように国会において「排除」されたのか。1948年の排除決議を現代語訳してみる

「民主化を達成するため」の排除決議だった

 ただいま朗読いたしました主文の通り、現在わが国は平和国家、民主国家としての建設の途上にあります。  ポツダム宣言受諾以來、かつまた新憲法制定以来、確固として決定された国の方針であると言っても間違いはありません。  従って、われわれといたしましては、それを目指して、あらゆる改革を断行し、また断行せんとしています。  ところが、それらの諸改革は、すでに制度上におきましては相当大幅に、画期約に、なされてきましたが、制度上の改革に比べますと、精神的内容についての改革、すなわち、精神革命については、まだ充分とは言えません。  この点は率直に認めてよいでしょう。  すなわち、従来の封権主義的、軍国主義的、超国家主義的な、そういった理念、精神から、個の尊厳を確認しますところの民主主義的な精神の切替え、改革といったものが、まだまだ充分になされていない、世界の水準にも達していないということは、遺憾ではありますが、事実と言わなければなりません。  従って、新憲法が制定されても、依然として古い考え方が残っております。新しい考え方と古い考え方がときに衝突し、ときに予盾し、その結果混乱をひき起して、そのために民主化が停滞している、と言っても間違いはありません。  世間でいいますところの道義の頽廃、あるいは虚無的な、理想を欠いた生活展開は、つまりは、この精神の混乱から生れてくる現象であると言っても間違いではありません。  そこで、我々といたしましては、このような混乱をいつまでも放置しておくわけには参りません。できるだけこれらを整理し、民主的な精神内容を国民の一人ひとりが正しく把握し、理想とする平和国家としての体を整え、国際的にも信頼されなければならないのです。  そして、そのことを達成するためには、何よりも教育が本質的に必要で、そのために、教育基本法をすでに制定し、これによって国民の指導原理を明らかにしているわけです。  その基本法においては、われわれは新しい憲法の精神に則り、民主的で文化的な国家を建設して、世界平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示し、個人の尊厳を重んじ、心理と平和を願う人間の育成を期するとともに、普遍的で、個性豊かな文化の創造を目ざす教育を普及徹底しなければならないと規定しているわけです。
次のページ 
部分的に良かろうが根本原理から認められない
1
2
3
4