元カープ投手が10万円で作った手作り野球塾。教え子は名門高校へ【アスリートのセカンドキャリア考察】

プロ入りから3年以上経過するも、活躍の場は訪れず

 同期のドラフト選手達が試合に出場し、プロとしてのステップを順調に進めて行く中、国木は日々卑屈な想いを強めていったという。 「僕のように怪我で投げられない選手が、一緒にグラウンドで練習していていいのか、と自問自答し、気がつくと練習に行くのも嫌になった。元々の性格もありますが、誰かを蹴落としてでも上に行きたいという考えも一切持てなかった。それでも、オーナーが練習を見に来てくれて、『怪我が治るまで待つから、根気強くリハビリを続けてくれ』と2軍戦まで来て、声をかけてくれたのが唯一の救いでした」  左手の状態は、一向に改善されず、ようやく迎えた初登板はプロ入り後、3年半の月日が流れていた。  2004年の8月21日の近鉄戦で中継ぎとして登板し、近鉄打線を3者凡退で抑え「初めてプロ野球選手となった」という実感を持った。しかし、繊細な指元の感覚は戻ることなく、変化球を投げる際のリリース時の手首の違和感は拭われない。プロとして過ごした4年間、高校時代に豪腕で鳴らした投球を披露する姿をついに披露することはできなかった。  2005年のオフ、国木は日の目を見ることなく、静かにユニホームを脱いだ。
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職を転々……「履歴書の書き方もわからなかった」
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