消毒用アルコール不足で巷を「次亜塩素酸」が席巻しているのを化学者が問題視するワケ

一体何が問題なのか

 次亜塩素酸は、次亜塩素酸ナトリウム(キッチンハイターの主成分)を塩酸やクエン酸などの酸で中和して製造するか、隔膜型電解槽によって食塩水を電気分解することによって製造されます。どちらの製法もたいへんに低コストで、とくに次亜塩素酸ナトリウムの中和は、極めて安価です。次亜塩素酸類の性質や法的定義とくに「次亜塩素酸水」呼称問題については過去3回の記事に詳細に記述しましたのでそちらをお読みください(参照過去記事1,2,3)。本稿は、これら3回の記事と消毒薬、とくに塩素酸類を使う上での注意点と「べからず」について記述した二回の記事(1,2)について併読するとより楽しく深く理解できます。  ここで代表的な手指消毒薬としての問題点を論じます。  手指消毒薬は、最も安価で効果的な手洗いが難しい場合に使われます。あくまで基本は石鹸(普通の石鹸で効果はバツグン)での手洗いですが、2002年にCDC(合衆国疾病予防管理センター)がガイドラインを大幅に転換したようにアルコールによる迅速な手指消毒も強く推奨されています*。 〈*Guideline for Hand Hygiene in Health-Care Settings October 25, 2002, Vol. 51, No. RR-16 CDC/医療現場における手指衛生のためのガイドライン(訳文):2020年4月3日のCDCによるマスク着用に関するガイドライン変更と並んで歴史的な転換と高く評価されている〉  手指消毒に求められるのは、再現性の高い十分な消毒能力=「確実性」、薬傷を起こさない=「安全性」、「迅速性」の三つです。消毒用アルコールは、これらの三つ全てを満たします。但し、アルコールによる脱脂効果で手荒れを起こすことはいまだに医療関係者の悩みです。  最近店頭に多く並び、店舗や公共の場に置かれることに増えている「次亜塩素酸」には、次の問題があります。 1)確実性:確実に殺菌できる保証がないし合意も無い  次亜塩素酸そのものは50ppm程度の低濃度でも強く広汎な殺菌力を示すが、製造後の自然分解による減衰が大きく、消毒現場で安定して効果を示すかについて合意が無い。  製品の多くは、白色瓶か、乳白色透明瓶入りでいずれも光分解を抑止できない。本来は遮光瓶入りでなればならない。  ほぼ全ての事例で薬液の製造日からの経過時間が分からない。常温、未遮光条件では次亜塩素酸は急速に分解する。 2)安全性:人体に使用した場合の安全性の合意が無い  流通している次亜塩素酸や、公共の場、店頭などで不特定多数に供せられている次亜塩素酸には、人体に使った場合の安全性と安全な使い方に合意がない。  中には、明らかに有効塩素濃度数百ppmとみられる淡黄色で塩素臭のする液体が入った「次亜塩素酸」入りスプレイボトルが設置されている事例を筆者は目撃している。本来、有効塩素濃度50ppm程度の「次亜塩素酸水」は、無色透明で外見と粘度は水とほぼ変わらず、僅かに塩素臭がする程度である。 3)迅速性:アルコールと異なり自然に揮発しないために迅速性には大きく劣る  消毒用アルコールにしても次亜塩素酸にしても数十秒程度で消毒の効果を発揮するが、次亜塩素酸は揮発しないために後処理を要する。また、次亜塩素酸類が表皮に付着したまま放置することは好ましくない。従って、拭い取る処置が余計にかかる上に交差汚染の可能性が生じる。  生体に有害な次亜塩素酸ナトリウムに比べればマシという程度の安全性ですが、安価にもかかわらず消毒薬としての効果はバツグンではないかとして長年着目されてきたのが「次亜塩素酸水」です。これは、塩水や水道水を隔膜式電気分解することによって得られる有効塩素濃度10〜80ppmの次亜塩素酸水溶液を示すものと厚労省の告示によって定義されています*。 〈*食品衛生法施行規則(昭和23年厚生省令第23号)および食品、添加物等の規格基準(昭和34年厚生省告示第370号)による。詳しくは過去記事参照〉  しかし次亜塩素酸は常温で分解しますし、光(とくに紫外線)があれば分解速度が加速されます。これは次亜塩素酸ナトリウムであるキッチンハイターもおなじなのですが、おなじみの緑の遮光瓶に充填され、光化学反応を抑え、更に6%程度の有効塩素濃度と高い濃度で出荷されており*かつ、製造後3年間の減衰率も公表されています。したがって、製造日が分かれば常識的な保管状態であれば製造後3年以内にいつ、誰が使っても常に安定して効果を発揮します。この安定性=確実性がなければ消毒薬としては使えません。 〈*キッチンハイターなど次亜塩素酸ナトリウム製品は、pH13程度と強アルカリのために完全に電離した次亜塩素酸イオンとして存在しており、化学的に安定性が高い〉  効果はバツグンな消毒薬として使ったら、実は分解して「効果は無いみたいだ」では誰が責任をとるのでしょうか。消毒薬は、確実に効果を持つことが確証されていなければ、消毒したのに水になっていてウィルスに感染して死んじゃったなどということが起これば本末転倒です。効かない消毒薬は殺人薬剤になります。  次亜塩素酸の多くはpH4〜6程度の弱酸性で、ほぼ電離せず次亜塩素酸分子の状態で存在するが故に強い殺菌効果を持つとされます。これが次亜塩素酸の大きな優位点で、有効塩素濃度が高々50ppmの次亜塩素酸水が500ppmのハイター希釈液相当の効果、カビに対してはより強力に効くとされています。ところが、化学的に不安定なために時間がたてばただの極めて薄い希塩酸になってしまい、光と熱でその分解は加速されます。これが次亜塩素酸の本質的な弱点で、「次亜塩素酸水」としての製品流通には無理があります

医学的・科学的な合意を得られていない「安全性」

 同様に安全性にも合意が得られていません。「次亜塩素酸水」は食品添加物として認められているから安全だと謳う広告を見かけますが、「次亜塩素酸水」は、次亜塩素酸ナトリウムと同様に食品を製品として出荷する時点で除去されていることが求められています。消費者の手元で人と接触することは認められていません。  次亜塩素酸類の身近な使用例は、水道水と遊泳用のプールです。水道水はpH6~7前後が基本で、蛇口での次亜塩素酸濃度は1ppm未満です。伝染病蔓延時の緊急対応でも2ppm迄しか認められていません。WHOのガイドラインが5ppm以下です。遊泳用のプールでも次亜塩素酸による有効塩素濃度は1ppm以下とされており、多くのプールは、pH6前後、有効塩素濃度1ppm未満に管理されています。多くの場合、消毒薬として次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)が使われます*が、pH調整によって弱酸性に維持されていますので、水中に存在するものは殆どが次亜塩素酸分子です。プールの有効塩素濃度の調整に失敗して、1ppmを超えると目の痛みに始まり粘膜に異常が起こり、人によっては皮膚の異常などが起こります。 〈*プールでは、多くがより使いやすいイソシアヌル酸塩へ移行しつつある〉
遊離有効塩素の存在率のpH依存性

遊離有効塩素の存在率のpH依存性
食品安全委員会 添加物評価書 次亜塩素酸水2006/12より

 プールに入る前の足腰洗浄槽は、有効塩素濃度は50〜100ppmで、液性は弱アルカリ性と思われます。この運用実績を持って有効塩素濃度30ppm程度の塩素殺菌は、人畜無害だという主張がありますが、粘膜障害や皮膚障害などの統計を取り分析のうえで公表しない限り、科学的に全く無根拠の私説に過ぎません。むしろ現場での運用では、目などの粘膜への障害、皮膚の炎症などへの対応が存在していたと学校関係者からは聞いています。  個人の狭い経験と思い込みによる非科学的な主張はどの分野でも多くみられるのですが、こと生命の安全と健康に直結する一般向けの消毒においては、極めて有害で危険なものです。  「私は大丈夫だ」、「私の所では効果がある」というのは、趣味の次元の話であって、一般向け、医療の向けの消毒においては路傍の乾いた犬の糞なみに無価値で危険(犬蛔虫卵は人間に極めて危険)な主張です。  安全性の合意を得るにはたいへんな費用と時間を要しますが、今迄四半世紀、食品添加物としての承認後からだけでも20年間近く、何をやってきたのでしょうか。筆者はそちらが不思議でなりません。  迅速性は、あくまで後処理の問題であり、安全確実かつ交差汚染無しに拭き取るためにはペーパータオルと安全な処理箱が必須となります。これも次亜塩素酸がアルコール消毒薬を単純に置換できるものではないことを意味しています。
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問題の核心は企業倫理、工業倫理にあり
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