ここで紹介したオウム事件関連のデマは、公の場で堂々と語られている。河野氏がひかりの輪に接近し広告塔まで務めていた事実も、別に隠されていない。ググれば誰でも確認できる。
私自身はこれらを逐一どこかしらで記事にし、批判してきた。私だけではない。カルト問題に取り組む人々や関心を寄せる人々も、それぞれにネットなどで言及している。
しかしそれがたとえば炎上するほどの批判に発展することはない。新聞やテレビでこれらが問題として報じられたり検証されたりする場面もない。
決して、オウム問題が語られる機会はなくなってはいない。報道はそれなりに続いている。にもかかわらず、デマが堂々と公の場で語られ、残党と馴れ合う人々が現れ、それらが本格的な批判を受けることがない。
メディアはその点には触れず、こうした問題ある言動や行動を取る人物たちをオウム事件報道にからめて登場させる。さすがに大手メディアで露骨なデマや残党ヨイショが語られるケースは多くはないが、たとえば前述の森氏の『A3』の問題部分は『月刊PLAYBOY』の連載がベースになっている。書籍化以前に一般の報道メディアで垂れ流されていたものだ。
これが
オウム事件の「風化」の実情だ。
そもそもサリン事件被害者や遺族といった当事者にとって、自身や家族を傷つけられ殺された事件が「風化」するはずもない。「風化」について被害者や遺族といった当事者に語らせること自体が、メディアの欺瞞ではないか。
勝手な解釈がすぎるかもしれない。高橋シズヱ氏の真意とは違うかもしれない。しかし私は、冒頭で紹介した〈「風化」という言葉でくくるのは失礼〉という言葉から、こんな苛立ちを呼び覚まされた気がする。
「風化」は、被害者遺族などの当事者に問うべき問題ではない。メディア自身が向き合い抗うべき問題だ。単なる枕詞で片付けるのではなく、
「風化」の具体的な表れ方を取材し問題提起することこそが報道の仕事ではないのか。
<取材・文/藤倉善郎>