日本国憲法は第11条において、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」と絶対的に保証し、国民の権利と自由を国家権力から守っている。しかし、基本的人権は絶対的に保証されるが、無制限なものではない。社会において、ある人の人権と別の人の人権がぶつかった際に、制約を受ける。
例えば「ある個人の表現の自由 vs 他者のプライバシー権」のような事例だ。AさんがBさんに関する暴露本を出版しようとしている。この本が出版されるとBさんのプライバシー権が侵害される可能性がある。Aさんは表現の自由を行使して出版を進め、Bさんはプライバシー権を行使して出版の取りやめを画策する。このような場合に、人権同士の衝突を調整し解決する原理が「公共の福祉」だ。
昨今のネット空間を見ていると、公共の福祉の「公」=「国家」という考え方に基づいた発言を多く見かける。彼らは、国家政策に邪魔な存在や、国家や国の代表と相反する考えは、公共の福祉に反するため規制すべきと主張する。
また、公共の福祉と聞くと、「社会秩序のために、個人はわがままを言ってはいけない」や「社会全体や多数派の利益になるときは、個人や少数派の権利は制限されるべきである」といった誤解を抱いている人が多くいる。
これら2つの考えに共通しているのは、「国」や「社会」が個人の人権を制限できると考えている点だ。
「頭の中、金正恩かよ」とツッコミたくなる。
個人を最大限尊重する日本国憲法下において、「国益に反するから」や「社会の利益に反する」という理由で個人の人権を制限することはできない。できるのは他の個人の人権を保障する時だけだ。
自民党改憲草案第21条は、1項で日本国憲法と同じく表現の自由を保証している。一方で、2項において「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」と規定し、『公益及び公の秩序』によって『表現の自由』を制約している。『公益及び公の秩序』とは一体何か?
2016年4月3日のNHK「日曜討論」において、現自民党憲法改正推進本部 最高顧問である高村正彦氏(元衆議院議員)は、「「公益及び公の秩序」とあるのは、いまの憲法の「公共の福祉」という言葉を分かりにくいから置き換えただけだ」と発言した。
高村氏曰く、「置き換えただけ」だそうだが、本当にそうなのか?その答えは、自民党が出している日本国憲法改正草案Q&Aの中にあった。
【日本国憲法改正草案Q&A Q15「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのはなぜですか?】
「意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、その曖昧さの解消を図るとともに、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです」
注目すべきは、「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではない」と述べている点だ。この一文に、「国家によって人権を制約してやる」という自民党の思惑が見え隠れ…いや、ダダ漏れしている。
高村氏は「置き換えただけ」と言っていたが、「公共の福祉とは個人の人権が衝突した際に調整する役割」と勉強した私たちの目は誤魔化せない。「人権相互の衝突の場合に限らない」と言っている時点で「公益及び公の秩序」は「公共の福祉」と同じ意味ではないのは明らかだ。
「公益及び公の秩序」という言葉は、日本国憲法の「基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られる」という考え方を否定し、国家の利益(公益)や社会秩序の維持(公の秩序)という抽象的な概念によっても基本的人権を制約できる力を持っている。
日本国憲法は、国家が個人よりも優先する国家主義や、全体が個人よりも優先する全体主義を否定し、個人を最大限尊重する個人主義がベースに存在する。そのため個人の人権は国家による制約を受けない。制約を受けるのは他の個人の人権を保障する時だけだ。こうした日本国憲法の考えの下、私たちは、個人が最大限尊重され、多様性のある社会をめざしてきたはずではないのか。
しかし、自民党改憲草案「公益及び公の秩序」では、他人の人権だけでなく国家の安全や国家の利益(公益)、社会秩序(公の秩序)に反しない限りでしか、私たちの基本的人権が認められない。
そんな社会、恐ろしすぎる。多様性も何もあったものではない。国家や多数派を優先し、個人の権利がないがしろにされる社会において一番割りを食うのはマイノリティだ。また、マイノリティに限らず、時に公益や社会秩序のために、「私」という「個人」を殺さなければならなくなる。「個人」が「公」のための駒になる社会が、私たちの目指すべき社会で本当に良いのか、熟考すべき必要がある。