それからというもの、あらゆる手を尽くして加藤紘一へのアプローチを続けた。しかし、自社さ連立政権樹立後、野中広務とともに自民党政権を支え続けた超重要人物にもかかわらず、加藤紘一の動向は一切つかめなかった。彼の地盤が娘の加藤鮎子に受け継がれ、彼自身は政界とのつながりを断っているのは無論承知していた。とはいえ「宏池会のプリンス」と呼ばれ、宮沢内閣崩壊後の自民党を支え続けた重要人物の動向が一切わからないのはなんとも不思議だった。そもそも彼の秘書だった人物ももはや四散している。なんとも不思議な光景だし、これほど、「自由民主党・保守本流の壊滅」を物語るものはないと思った。
だが、そんな感慨にふけっている暇はない。そもそもの目的は自民党の歴史を書くことでも、政界のゴシップを拾い集めることでもない。あくまでも日本会議が永田町でどのように活動するのかを浮き彫りにすることだ。そのためにはどうしても加藤紘一と会う必要がある。彼から証言を引き出し、村上さんの証言と対比させ、村山内閣から小泉内閣に至るまでのあの時代、日本会議は何をしてたのか、「一群の人々」は自由民主党にどのようにアプローチしたのかを浮き彫りにしなければならない。
しかし、依然、加藤紘一の動向はようとしてつかめない。自分でやれることはやりつくした。残る手段は、他人の手を煩わせることしかない。心苦しいものの、仰ぎ見るような存在の某大先輩に、加藤の動向を探ってもらった。
「菅野さん。残念なお知らせです。加藤さんはもう、人に会えません。重篤なのです……」
加藤紘一は倒れていた。彼が脳溢血を起こしたことは報道により承知はしていた。しかし報道の内容は概ね「軽い脳溢血」と伝えるのみだ。そこまで重篤とは知らなかった。
この第一報をつかんだのが昨年9月。諦めきれなかった私は、また人を頼ってさらに加藤の動向を探ろうとした。「彼の至近に侍る」と言われる人ともコネクションができた。それから約半年、その人物は定期的に加藤の容体や彼から見た加藤紘一のエピソードを語ってくれたが、連絡は途絶えがちになった。そんな矢先の先週某日、夜中にかかってきたのが冒頭の電話だ。電話の内容は、冷酷だった。もう諦めるしかない。
ここまで加藤紘一に拘るには訳がある。