国民的飲料「カルピス」の知られざる起源――元僧侶の創業者が発揮した驚くべき経営手腕

「カルピス」の水玉模様は天の川のイメージから

 こうして、1919年7月7日に発売されたカルピスは、原料となる牛乳が割高であったため、当時ラムネ(約170ml)が8銭、サイダー(360ml)が22銭、牛乳(180ml)が10銭の時代に、大瓶(400ml)1円60銭する、購入単価の高い飲み物だったようですが、新聞広告等で濃縮飲料であるため、薄めて飲む時の1杯当たりの経済性が高いことを積極的に訴求「美味」「健康」「経済性」を謳って、見事に国民飲料として定着していきました。  なお、発売当初のカルピスは現在の薬用養命酒のような下膨れの瓶で紙箱に入っていましたが、1922年に、発売日の七夕にちなんで、天の川をイメージした青色地に白い無地玉の水玉模様の包装紙を巻いたタイプになり、1953年には色を逆にした、白地に青い水玉の、今でもお馴染みのカルピスのカラーイメージが登場しています。

当時物議をかもした「初恋の味」のキャッチフレーズ

 そして、カルピスの広告といえば『初恋の味』のキャッチフレーズが有名ですが、これは1920年、海雲の学生時代の後輩である驪城(こまき)卓爾が「甘くて酸っぱいカルピスは『初恋の味』だ。これで売り出しなさい』」提案したことがきっかけでした。1920年当時といえば『初恋』という言葉さえはばかるような時代だったため、海雲も一度は「とんでもない」と断っています。  しかし、また驪城は海雲を訪ね「カルピスはやはり『初恋の味』だ。この微妙・優雅で純粋な味は初恋にぴったりだ」とすすめました。海雲が「それはわかった。だがカルピスは子どもも飲む。もし子どもに初恋の味ってなんだと聞かれたらどうする」と言うと、驪城は「カルピスの味だと答えればいい。初恋とは、清純で美しいものだ。それに、初恋ということばには、人々の夢と希望とあこがれがある」という言葉に海雲も納得したそうです。  こんなやり取りがあって、1922年4月の新聞広告にキャッチフレーズ『初恋の味』が登場、 当初は世論を二分するほど話題になりましたが、当時好景気で世の中は明るく、このモダンなキャッチフレーズはそんな世情にマッチし、カルピスとともに日本中に広がっていきました。

アイデアフルな大衆参加の広告宣伝手法

 このように、創業者の海雲は商品開発だけでなく、広告宣伝においても目新しいやり方に積極的に取り組んだアイデアマンでした。とはいえ、それはただ奇をてらったものではなく「広告の狙いは、商品そのものを売ることではない。企業体のイメージを一般大衆の心のなかに送り込むことである」という考えに基づいており「なるほど、カルピスを販売する会社は立派なことをする会社だ」という信頼を勝ち取ることこそが広告の最終的な目的だと捉えていたようです。  そのため、海雲が積極的に行ったのが大衆参加の広告宣伝活動でした。その内容としては、富士山頂から日比谷公園までの伝書鳩レース「空中マラソン競争(動物愛護協会とタイップ)」野口雨情や西条八十、北原白秋等を選者にした童謡募集、日比谷公園において開催した9m四方の碁盤を使った囲碁大会、キリンの子供の名前募集(上野動物園とタイアップ)、日本各地の山々の登山記念スタンプ懸賞、カルピスいろは歌留多や社歌の作曲募集等々、非常に多彩なものでした。
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関東大震災で人々に生きる力を与えた、一杯の「カルピス」
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