超ロングセラー商品「バスクリン」を育てた創業者――明治・大正時代に「PRの天才」と呼ばれた男の経営センス

「PRの天才」と称された創業者の斬新な宣伝手法

バスクリン

バスクリン公式サイトより

 1895年には、日本初のガスイルミネーション看板を日本橋の店舗の2階から屋上に向けて取り付け、当時のロマンチックな銀座日本橋のガス燈風情を彩ったり、1907年に発売した胃腸薬「ヘルプ」ではクイズ形式のオープン懸賞を行い、応募総数25万名を超える大反響を起こしています。ちなみに応募は往復はがきで、外れた人のはがきは日本赤十字社に寄付する辺りもセンスを感じさせますね。その他にも、電気看板やアドバルーンといった宣伝手法もいち早く取り入れ、重舎は「PRの天才」と呼ばれるようになります。  余談ですが、重舎は米国に視察旅行に出かけて、売り出されたばかりのプレハブ住宅を十数棟購入して帰国し、震災火災で焼失時に知人に提供するなど、広い視野と素早い行動力を持っていたようですが、1926年には、米国で数多く見かけたドラッグストア内の喫茶店を本店でも開始しています。  この形態は1939年には廃業しているのですが、実家が漢方薬を扱っていて、銀座日本橋界隈で薬局を創業、超ロングセラー商品を開発し、従来に囚われない斬新な宣伝手法、米国で見た薬局内喫茶店を開設等のエピソードは資生堂と相当被りますね。銀座の西洋薬局資生堂と日本橋の漢方薬局ツムラ、当時のベンチャー企業の作り出す風景はどんなだったのか興味をかき立てられます。

看板商品の残りカスから新しい看板商品が誕生

 このように、4P戦略で言うところのProduct、Promotion、Placeをユニークなやり方で伸ばしていた同社でしたが、ある時社員が「中将湯」の製造過程で出る生薬の残滓を持ち帰り、お風呂(当時はタライ で行水が日常)に入れたところ、体がぽかぽか温まったり、 湿疹がよくなったりしたことから、1897年に銭湯向け入浴剤「くすり湯 浴剤中将湯」を発売します。
  この「くすり湯 浴剤中将湯」入りの銭湯は、大変な評判になったようです。ただ「夏に使うと風呂上りに体が温まりすぎる」という課題も新たに浮上しました。そこで、京都大学教授の刈米博士の力を借りて、暑い夏でも過ごしやすい、爽やかな色と香りを持った夏向けの新たな入浴剤として、1930年に発売されたのが「バスクリン」でした。  ちなみに「バスクリン」自体はオレンジなのに、入れるとお湯が緑色に変わるのは、ウラニンという色素の働きです。また、大正ロマンの巨匠、高畠華宵が手がけたパッケージは今見ても目を引く艶がありますね。
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「バスクリン」「バスロマン」「バスキング」今では仲間?
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