「お母さんの世話をするために家にいなさい」…ストレスで鬱になった「ヤングケアラー」

母の通院介護に明け暮れる

 その後、杏璃さんは徐々に回復に向かっていったものの、今度は母親の精神状態が悪化してしまう。  「母の精神状態が悪くなったため、27~28歳くらいの時は、完全にケアラーとして生活していました。母の入院先の病院が成田から車で30分ほどの場所にあるのですが、そこへ数日おきに着替えを届けたりお見舞いやおしゃべりに行ったりする。2ヶ月入院して、退院してまた2ヶ月経つと入院が必要になる。年に6回くらい通院介護をしていました。  28歳のとき、今度は私が鬱からの失語になってしまって、3ヶ月入院しました。だからこの時期の母との会話は、入院して状態の落ち着いた母に『元気?』と聞かれて全然元気じゃないのに『元気』と答えるような感じで。妹もいるのに、ずっと私がケアをするという。でも地域柄的にもそれが当たり前だったんですね。体の弱いお母様の面倒を娘さんがずっとみるというのは」  たしかに、病気の家族の世話をある程度まで家族が担うのは仕方がないのかもしれない。しかし、ケアや介護が子どもの成長や家族の健康、仕事などに影響するレベルで生活を圧迫するのならば、福祉制度に頼るのが望ましいだろう。共倒れになる「共助」では意味がない。    経験を積んだ中年期の大人でさえ大変なケアラーの役割は、家庭で生活するしかない子どもや「まだ若い」と社会から期待を受ける20代に負わせるには重すぎる問題だ。子どもにはケアを引き受けるかどうかを選ぶ自由がほぼないうえ、ケアラーとして自身の生活を疎かにしたことが、将来にわたって影響する可能性があるからである。  杏璃さんのケースでもそうだろう。では、杏璃さんにその役割を押し付けてしまった原因は、家族、社会、福祉制度のそれぞれいったいどこにあったのだろうか。

「長女だから」…杏璃さんを苦しめた祖父母の思い

 まず、祖父母が杏璃さんのみに負担を押し付けようとしたことはやはり問題だったのではないか。祖父母も健在で、妹がいたにもかかわらず、杏璃さんのみが「見守り」や「通院介護」のケア役割を担わされていた。母方の叔母も手伝わなかった。それなのに、誰も妹や叔母を責めることなく、長女の杏璃さんだけを責め続けた。  「長女だから、母親のケアラーになってくれないと困る。長女だから、家を継いでもらわないと困る。そういう理由で、私と妹で扱いが全く違ったんです」  祖父母は現在では90歳過ぎだという。1930年前後に生まれた昭和一桁世代では、明治憲法に端を発する「イエ」の観念がまだ強力だった。家をテーマに研究する歴史社会学者の米村千代氏は、家業がなくとも家名によって成り立つ抽象的な存在として当時の「イエ」を説明している(『よくわかる現代家族』第2版、ミネルヴァ書房)。個人化の進んだ現代の家族観とは異なる、この「イエ」の家族観が祖父母や地域に強かったことは間違いなく杏璃さんの生育に大きく影響しているだろう。  さらに祖父母の個人的感情もある。杏璃さんは祖父母についてこう語る。  「身体の弱い母は結婚も出産もしないだろうと、祖父母は死ぬまで面倒を見るつもりだったといいます。でもそんな母が結婚し、娘が生まれた。その時点で、『あ、この子に面倒を見させればいいんだ』って都合よく押し付けられてしまったのだと思う」  祖父母は、子供を2人失ってから授かった杏璃さんの母親を溺愛していた。その溺愛っぷりと、長女に家を任せるものだという価値観が重なった結果として杏璃さんの窮状が生まれたのだろう。
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訪問看護の落とし穴
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