なぜ新聞の政治報道に違和感が生じるのか? 現役記者の「3つの欠如」<対談:松本創 x 上西充子>

「価値観より事実」という心理的呪縛

上西:なぜその雰囲気がないのか。分断されているから連帯できない、連帯しようと思っても、連帯から抜けて相手側に擦り寄る道を選ぶ者がいるから無理だというのが南さんの見立てだと思うんです。けれども南さんの著書に収録された記者を対象にしたアンケートを見ても、そもそも連帯しなきゃいけないとか権力を監視しなきゃいけないという意識がない人たちもいるのかなと思って。 松本:そこは、さっき言った三つの問題のうちの「思想がない」という部分に関わると思います。ここで言う思想とは、右とか左とか、リベラルだ保守だといった政治的イデオロギーの話ではありません。例えば地方自治とはどうあるべきか、何が公正であり、どんな社会が望ましいと考えるかといった価値観の問題です。  大阪であれば、都構想について記者自身がどう思っているのか、吉村氏や松井氏の発言や政治手法をどう見ているのか、維新や彼らが目指す社会像のようなものをどう評価するのか。そういう記者個人の価値観に根差した、ある種の思想がなければ、そもそも疑問や批判的視点は生まれようもありません。  ところが、いまの記者の間には、「自分自身の価値観を出してはいけない」とか「価値観より事実。報道に主観は不要」という心理的な呪縛が、無意識かもしれないけど大きくあると思います。 上西:価値観より事実? 松本:そうです。自分の価値観や主張よりも、まず大切なのは事実であり、それを報じることだという。で、それは記者倫理としては正しいんです。事実をなるべく客観的に、公正に伝えるのが記者の仕事ですから。だからストレートニュースには主張や批判は入れず、事実を淡々と伝えるという姿勢が求められる。批判するなら冷静に、事実に基づいてするべきだという話にもなる。  けれども報道には、価値判断をして論評や主張をする、あるいは読者に問いかけるという重要な役割もある。つまり取材した事実をどう伝えるかという部分、ここが弱いというか、「価値観より事実」の心理的呪縛が強すぎるために、批判や主張をするべき時にできず、結果として現状肯定的になってしまっている気がします。そのうちに「批判は生産的ではない」とか「批判者は感情的で冷静さを欠いている」といった見方になり、批判そのものを避けるような風潮が強まっているんじゃないでしょうか。それが権力側にとって「物分かりのよい」記者が多くなっている要因じゃないかなと。それはたぶん、時代の空気もあると思いますが。 上西:ただ、記事の中に批判的な文言が入るかという問題ではなくて、批判的な認識があるということと事実を持って語らせるというのは、十分に両立は可能だとと思うんです。  例えば首相記者会見にしても、まだまだ手は挙がっていたけど打ち切られたとか、打ち切られた後に首相が内部の打ち合わせだけしてすぐに帰ったとか、そういう事実を淡々と述べるだけでも、読む側は批判的に受けとれるじゃないですか。それに対して、そういう事実を敢えて語らないで、「首相はこう語った」という「事実」を書くだけなら、それは単なる広報と変わらないものになってしまう。  だから記者は、自身の主観を文章の中に紛れ込ませるべきではないというのは守るにしても、報じるに値するものを見抜いて、何を「事実」として並べるかというところに、記者としての見識や問題意識、権力監視の姿勢が反映されるべきだと思うんです。  価値観とおっしゃったけれど、例えば「質問に答えないのはあり得ないよね」とか「事実を曲げるのはあり得ないよね、根拠を示さないとかあり得ないよね」ということは、価値観ですらないくらいの、それを曲げちゃ駄目でしょうってところだと思うんですよ、記者としてはね。にもかかわらず、そこさえ気にすることをせず、向こうがこう言ったとだけ報じて、どんどん視点を擦り寄らせていくのは、自然とそうなっちゃっているとしたらマズいことじゃないかと思います。 松本:マズいと思いますね。ただ、質問に答えなかった、質問を途中で打ち切ったみたいなことは、自分たちが仕事をする過程の、いわば「舞台裏」の話であって、そこは報じるに値しない、書くべき要素ではないという判断があるのかもしれません。これだけ会見や取材過程が可視化された時代に「舞台裏」も何もあったものじゃないと思うのですが。

「いざとなったらスクープ」もいいけれど……

上西:要は記者が、連帯ができなくて政治権力の側に追い込まれている状況を端的に表すものだと思うんですよ。一問一答しかできないとか司会の権利を奪われているのに、記者の側とすると、そこに何も問題点を感じていないのか、報じるべきとも考えていない。ただ、向こうに一見寄り添って、何を言った、これをしたと報じている。でも「いざとなったらスクープを取ってくるぞ」と考えている。  確かにいざとなったらスクープをとってくる人もいるわけですよ。けれどもスクープだけでもないだろうと。日頃から、まともに記者に答えないとか、まともに国会で質問に答えないこの状況が異常だということは、私たち読者に知らせなきゃいけない事実だと思うんですよね。なんでそこに問題意識を彼らは持てないかのだろうかと疑問に思うんです。 松本:三つの問題の「時間がない」というところにも関係すると思うんですけど、一つはネットニュースやSNSが一般的になったことによって、速報主義がより強まっているのはあると思うんですよね。  菅首相がこう言ったという断片的な情報がまず一次情報、それを早く報じるということですね。先生も書いていらっしゃいますけど、そういう発言をしたことは事実だと。そこだけが前面に出て、その発言内容が事実なのか、過去の発言との整合性はどうか、あるいは記者の質問にかみ合っていたのか、誠実な答弁であったのかとか、そういったことは省かれてしまう。  それをどう伝えるか。日々のニュースの中では入れ込めないとしたら、まさに先生もおっしゃったスクープだけじゃなく、検証するという視点が必要になってくるんじゃないでしょうか。
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「ネット最適化」で起きるジレンマ
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【HBOL 編集部よりお知らせ】
上西先生による本サイト連載「政治と報道 報道不信の根源」が本になりました! 本連載及び上西先生による過去執筆記事を「政治と報道」をテーマに加筆・編纂。いまの国会で何が起きていて、それがどう報じられているのか? SNSなどで国会審議中継をウォッチしている人と、ニュースでしか政治を見ない人はなぜ認識が異なるのか? 政治部報道による問題点を、市民目線で検証しています。

政治と報道 報道不信の根源

統治のための報道ではない、市民のための報道に向けて 、政治報道への違和感を検証