――松本さんご自身は大阪を主戦場として、行政と在阪メディアの関係を現場で見てこられたわけですが、どのように感じられましたか?
松本:いわゆる「大阪都構想」の賛否を問う住民投票が2020年11月1日にありました。その報道を振り返る在阪メディア有志の会が昨年の暮れにあり、僕も発言したんですけど、そこでの議論を踏まえて言うと、いまの記者や報道をめぐる問題は、「現場がない、時間がない、思想がない」の三つになるかなと思うんです。先生の連載に重なるところもあると思いますが、順に説明します。
「現場がない」というのは、そもそも政治取材とか政治部文化につながる話で、大阪の場合だと役所の廊下が「現場」になってしまっている。首長に日々ぶら下がって発言を逐一追いかけ、「こう言った」と流すことが仕事になってしまっている。これが取材手法として確立され、視点もそこに固定されている。これは橋下徹氏の時から顕著になったメディア・コントロールの手法です。
大阪都構想、大阪市を廃止分割するというのは自治制度の問題であり、まずは政策の中身の話をしなきゃいけない。市民生活に大きく影響するからです。それなのに、取材する側の軸足が都構想を進めようとする首長の側にばかり置かれている。役所にばかりいる。そうすると公立の病院、学校や保育所、あるいは商店街とか、生活の現場の実情や影響が見えてこない。市民が個々、自主的に行う反対のビラ配りや討論会がたくさんあったんですけど、そういうものはほとんど取材に来ない。取材しても記事にしない。ある新聞社では「反対派の市民運動はオーソライズ(公認)されてない」というデスクがいたそうですが、オーソライズされた市民運動なんてあるのか。すごく権威主義的だな、と。
役所の中にだって別の視点はあるんです。大阪市が解体されるという話だから、市職員の中に異論は必ずあるはずだし、表立って言えなくても複雑な思いがあるのは当然です。しかも、可決されたら制度の改変を担っていくのは彼ら自身です。なのに、そこへ話を聞きに行かない。聞いていたとしても記事にしない。
その結果、首長をはじめ、維新や推進側が発する情報中心の報道になってしまい、それを軸にした政局の構図が作られる。維新・公明と、それに反対する自民・共産みたいな、いわゆる政局報道ばかりになる。
そうなる要因はいろいろあると思うんです。一つは、今の政府にも通じると思いますが、「トップダウン」「ガバナンス」みたいな言葉で語られる役所内部の締め付けですよね。行政職員も異論があっても喋れなくなっている。
もう一つは取材する側の問題。毎日一人の取材対象にぶら下がるわけですから、記者としてはできるだけ食い込んでいい話を聞きたい。そうなるとだんだん、視点や価値観が取材対象と同一化し、ある種の共感が生まれてしまうことがあると思います。それは政治取材に限らず、黒川検事長の麻雀の話とかも一緒で、社会部の記者は警察官とか検察官に食い込もうとする。懐に入り込んで、近い関係を築くあまり、一体化しがちなんですよね。
本来、記者の仕事というのは懐に入りつつ、どこかで取材対象を客観視して、違う視点からものを見ないといけないと思うんですけど、こうした取材手法の問題もあって、特に政治取材においては非常に政治家と目線を重ねてしまう部分があるんだろうなと思っています。
今の国政では、官邸に権力が一極集中して情報を管理し、すべての情報の出所のようになっていると聞きます。それは大阪の府庁や市役所で、維新の首長がトップダウンで物事を決め、彼らを支える「副首都推進局」ばかりが情報発信する現状と似ています。「役人は政治家に従うものだ」という論理で組織の多様性がなくなっていて、それと同様に、取材するメディアの側も多様な声を聞く回路がなくなっている。
上西:一人が複数の目線を持つのは確かに難しいと思います。食い込んで視点を合わせれば合わせるほど、やはり関係性としても難しい。けれども、毎日新聞の宮原健太さんは今は野党担当をやっているでしょう? 彼は総理番記者だったのが、今は野党担当になって野党の視点から政治を見ているわけですよね。そういうふうに政治部の中でも、ずっと総理にくっついている人とか野党の側から追っている人とか、担当を分けたりできるだろうし、あるいは匿名を保ちますからと内部告発を受け入れるとか、やろうと思えばできるんじゃないかと思うんです。ただ、それをやるとこの前の大阪都構想の住民投票直前に大阪市の試算をスクープした毎日新聞みたいに「大誤報」と扱われ、対立構造になってしまう。
こうした問題についても、各社が一丸となって、本気で対抗すれば、そういう批判もできないと思うんですが、それはなぜできないのか、あるいは、やらないのか。
松本:『
誰が「橋下徹」をつくったか』(140B、2015年)という本にも書いたんですが、記者クラブ内の連帯意識やコミュニケーションが今はほとんどなくなっているというんです。記者クラブの存在意義って、役所の中に記者たちの集団が権力監視のためにいて、権力側が何かおかしなことや横暴なことをすれば団結して対峙するという、ほぼその一点のためだけにあると思うんですが、それがもうない、できなくなっているというのが現状のようです。
メディアや記者間での競争は当然あります。だけど例えば、権力者側がある社の報道を「誤報」や「捏造」と決めつけたり、特定の社や記者を理不尽に攻撃してきた時には「それはおかしい」と連帯して抗議しないといけない。毎日新聞の「大阪市4分割試算」の報道は、後に取材手法が問題になりましたが、内容には何の問題もないわけです。それを捏造だと攻撃するのはやっぱりおかしい。維新の人たちは、いまだにそれを言い募ってますけれども。
橋下氏が2013年に「従軍慰安婦は必要だった」と発言し、国内外から猛批判を受けたことがありました。あれは当初、本人も報道に満足していたのを急に手のひら返して「大誤報をやられた」と言ったんです。それで、「もう取材は受けない」と。あれも誤報でも何でもなかった。記者クラブは「何を言ってるんだ」と本当は連帯して抗議するべきだったのに、何もしなかった。あの当時からの「空気」は今も続いているということでしょうね。