「左翼」としてのマラドーナ。常に弱者の側に立った天才フットボールプレイヤー

選手キャリアからもわかるマラドーナの思想

 マラドーナが最初にプロになったのは、アルゼンチンのブエノスアイレスの貧困層や労働者階級にファンの基盤があるAAアルヘンティノス・ジュニオールズだった。工場労働者だった父をはじめとして、ビジャ・フィオリートで人気があったアルヘンティノスは、もともとはマルティレス・ディ・チカゴという名だった。これはアメリカで八時間労働を求めて戦って殺された社会主義者の名前からとられている。  その後にアルゼンチンリーグでトップクラスの実績と財政基盤をもつ、同じブエノスアイレスの名門リーベル・ブレートから破格のオファーを受けた。しかし、当時財政難で破産寸前なボカ・ジュニオールスを選んで移籍する。ボカは貧しいイタリア移民が集まったやはり港町の貧困地区だったことが知られている。ボカはマラドーナの移籍金を捻出することが出来なかったのだが、マラドーナは自ら新聞にボカ移籍の意向をリークし、ボカの熱狂的なファンによる圧力を利用した。今でもアルゼンチン屈指の人気を誇るボカのファンはマラドーナを崇拝し続けている。  だがボカがマラドーナの高額な年俸を払い続けることはできなかった。ボカの借金を肩代わりしてくれるという条件で、スペインの名門FCバルセロナに移籍する。もうこの頃は、マラドーナの名声は南米にとどまることはなかった。

バルセロナを率いていた世界的名将との出会い

 当時のバルセロナの指揮官は世界的な名将で、自ら左翼であると公言して、それを誇ってやまなかった、同じアルゼンチン人のセサル・ルイス・メノッティだ。マラドーナは、1978年のワールドカップに17歳を理由にメンバーから漏れて、当時の代表監督だったメノッティを一時恨んだこともあった。しかし、そのあとは自ら自分はメノッティ派だといってリスペクトを捧げた。そしてメノッティはアルゼンチンを初めてワールドカップ優勝に導いた。  当時のアルゼンチンは軍事政権で数万人と呼ばれる人が政府の秘密警察によって人知れず殺されたといわれる暗黒の時代でもあった。メノッティは代表チームは政権のために戦うのではなく、民衆のために戦うと言い、優勝してからも軍事独裁政権のビデラ大統領との握手を拒否している。  メノッティはアルゼンチンのサッカーを、暴力的ともいえるラフプレーと個人技のチームから、洗練されて組織化されたパスサッカーに変貌させた立役者で、近年まで現役の指導者もつとめた。  そしてサッカーでの成功と重ね合わせるようにメノッティは社会主義者として高らかに言う。 「組織化された左派のいない国に未来はない。そうでなければ他に誰が、尊厳や正義のため、敬意や貧しい者との連帯のために立ち上がるだろうか」  そのメノッティとマラドーナの師弟が在籍したバルセロナは、当時でも世界的強豪だったが、同時にスベイン国内ではマイノリティであるカタルーニャ民族運動の象徴的存在であることはよく知られている。  バルセロナのホームゲームでは前半17分14秒にコールが巻き起こる。1714年にスペインに敗北し併合されたことにちなんだ、カタルーニャ独立運動のコールである。日本の天皇杯にあたるコパ・デル・レイの試合では、スペイン国家にブーイングが渦巻くこともある。昨年にはこのカタルーニャ独立の賛否を問う住民投票に発した政変があり、この混乱の中でもFCバルセロナは独立支持にまわっている。カタルーニャ語が禁止されてきた時代には、スタジアムだけが公然と自分達の言葉が話すことができる場所だったというエピソードも有名だ。マラドーナはまたしても弱者の側にいた。  そこで様々な問題をまきおこして移籍したのが、マラドーナの栄光の歴史でもっとも象徴的なクラブとなったSSCナポリへの移籍だ。
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イタリアでもまた弱者の側に立った
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