従来型の社会福祉に比べてベーシックインカムが好まれる別の理由は、
現金給付が極めて個人主義的なシステムだからであろう。健康に生きていさえすれば国民保険は無駄であり、投資でうまく立ち回れる者にとっては国民年金も無駄であり、子育てをするつもりがなければ教育の無償化なども必要ない。そうした者にとっては、細々とした社会保障よりも自分の裁量で自由に使える現金給付に一元化されたほうが、恩恵がある。ここでベーシックインカムは、単身者の若者向けの政策がないとする
「世代間闘争」論と結びつく。ベーシックインカムは「すべての世代」に平等だというわけだ。
しかし、健康な者と不健康な者、能力がある者と能力がない者で、同じ支援を与えるのは公正ではない。やはり
必要なところに必要な支援を地道にしていくことがまず考えられるべきだろう。しかしここで、理想化された個人主義がまた問題になってくる。それは「
選択の自由」の問題である。
医療が必要な者に医療を、教育が必要な者に教育を。たとえば現在健康で医療が必要のない者でも、人間の力ではどうしようもない事情で大きな病気や怪我をしてしまうこともあるのだから、強制的に国民保険に加入してもらう。このような公的支援をさらに強めることはパターナリズムであるとして批判する声がある。公的支援は個別の問題に個別にこたえるのではなくて、とにかく現金を渡す。そのお金の使い道は人々の自由である。投資するのであれ、生活の向上に使うのであれ、娯楽に使って浪費するのであれ、何にお金を使うのか選択するのは人間の崇高な自由にかかっている、というのだ。
もちろん生活保護を現物支給にせよというような、お金の使い道を自分では選ばせないようなかたちで人間の尊厳を奪うことについては反対すべきだ。しかし、公的支援によって与えてもらうのは出来れば少ないほうがよく、自分自身で選択できるならそのほうがよい、ということも一概にはいえない。
その理由は、個人の自由に価値がないからではない。
現金の給付によって示される「選択の自由」なるものは、むしろ資本による人間の訓育だからである。ベーシックインカム制度のもと、人々は月にまとまった金額を渡される。そのカネをどう使うのか。自分自身の「成長」のために使うのか。それともVtuberにスパチャして名前を呼んでもらうのか。人々には選択の自由がある。
しかし、ここで
人々が暗に迫られているのは、人々は正しいお金の使い方をしなければならないということだ。竹中平蔵バージョンのベーシックインカムならば、間違ったお金の使い方をした人間は野垂れ死ぬ。さらにその下にセーフティネットが張られている左派のベーシックインカム制度でも、たとえば生活保護のスティグマは現在よりも大きくなるだろう。なんでベーシックインカムを「有効活用」しなかったのか、となるからだ。
新自由主義的なベーシックインカム制度は、
人間を資本のもとに従属させることについてはすでに織り込み済みだ。それだけでは生活してはいけない金額を元手に、人々が資本主義的に正しい行動をとる設計主義的な発想が分かりやすく現れている。つまり彼らにとってそれは民営化や規制緩和といった「改革」のひとつなのだ。
一方、左からのベーシックインカム論で、こうした人々の行動変容の問題に解答できている例を私は知らない。むしろ
個人主義に対する楽観的な意識があらわれている気がしている。コロナ禍のような特殊な場合には定額給付金は意味があるかもしれない。あるいは教育や医療、老後について、我々の貯金が一円もなくても何ら不安ないような社会保障をして、なお所得の再分配のためにベーシックインカムが構想されるということもあるだろう。
この点で、立憲民主党のベーシックインカムではなく
ベーシックサービスという提案は、地に足がついた議論で納得がいく。閉塞した世の中で、大胆な「改革」を求める気持ちも確かに理解できる。だが、それが新自由主義「改革」であるならば、それは
人々を解放するのではなく人々を奴隷化する疑似革命なのだ。現在の環境は、それに対する警戒感に欠けている。左派としての戦略的な見地からも、ベーシックインカム論を今すすめようとするのは悪手に違いない。
<文/藤崎剛人>