能力に応じて働き、必要に応じて取る共産主義社会では、そもそも最低所得補償は問題にならない。ベーシックインカムの議論は、もっぱら自由主義経済を前提としている。左からのベーシックインカム論の主眼は、自由主義経済の市場の中で生じた格差の是正にある。すなわちそれは、
弱肉強食の競争社会の促進のためではなく、所得再分配の観点から、最低限の所得を公的に保障するための政策なのだ。
しかし、
所得再分配の方法は、ベーシックインカム以外にも存在する。われわれは将来実現すべき政策について、無限に思考したり議論したりすることはできない。子育て、教育や年金介護、日本の社会福祉はその多くが十分とはいえない。財源の問題もまったく無視するわけにはいかない。したがって、現実的に考えなければならないのは、
ベーシックインカムの議論をするかしないかではなく、所得再分配の議論としてベーシックインカムの議論をするか、それともその他の社会福祉の話をするか、ということになる。
つまり、竹中平蔵の、従来の社会保障を月7万のベーシックインカムで置き換えるという提案は論外としても、従来の社会保障+月7万のベーシックインカムあるいは従来の社会保障を置き換えるが月20万の最低所得が保障されるなどの提案をした場合でも、
医療や高等教育の無償化、生活保護や年金制度の拡充などと比較しなければならないのだ。
日本の社会保障制度は、世界でも最先端とはいえない。北欧や西欧の国々で実現されている高度な福祉ではなく、それらの国々ですらまだ実験段階に入ったばかりであるベーシックインカムを、なぜ今敢えて議論しなければいけないのか。
動機のひとつは、
閉塞した日本の現状を打破するのは思い切った「改革」であるという強い信仰だろう。小選挙区や省庁再編、民営化や規制緩和など、80年代以降、日本で強く唱えられ実践されてきた政治「改革」や構造「改革」とよばれるものは、そのほとんどが新自由主義的「改革」であったことは今や明らかなのであるが、それでも日本社会における「改革」信仰は根強い。
左派のベーシックインカム論は、こうした
「改革」信仰がリベラル左派にも浸透している証左だろう。従来の社会福祉制度の拡充や、個別ニーズにこたえていくような地道な改善では飽き足らないのだ。また政府への警戒心から、安直に「小さな政府」を支持してしまう左派も多い。
アナキズムとリバタリアニズムとネオリベラリズムは相互に往来が可能で、それらが共通の潮流となって、何かスカっとするような「改革」を求める光景は、ここ30年、よく観測されてきた。