菅首相誕生を後押しした「黒幕」。5大派閥談合と「記者クラブ」の共犯関係

記者クラブが縛った安倍会見と、フルオープンの菅氏出馬会見

 安倍首相の辞任表明(8月28日)から菅政権誕生までに行われた安倍、菅両氏の記者会見を振り返り、日本にしかない報道界のアパルトヘイト(人種隔離政策)である「記者クラブ問題」を考えてみよう。  8月28日午後2時7分、NHKが「安倍晋三首相が辞任の意向固める」と速報し、同日午後5時から安倍首相は官邸で記者会見した。安倍氏の官邸での会見は、6月18日の国会閉幕時の会見以来71日ぶりだった。  安倍氏の辞任会見の翌日、菅氏は自民党の二階俊博幹事長と会い、総裁選出馬の意向を伝えた。「首相になることはまったく考えていない」と断言してきた菅氏が、主要派閥の支持を取り付け、9月2日に東京・永田町の衆院第二議員会館の多目的室で、総裁選への出馬表明の記者会見を行った。  筆者は改めて、首相退任を表明した安倍氏と、次期総裁に名乗りを上げた菅氏の記者会見を、ネット上の動画で見た。安倍氏の会見は官邸ウェブサイトの動画(政府インターネットTV)、菅氏の会見は『朝日新聞』のウェブサイトの中継動画だ。  この2つの会見から「記者クラブ」問題の本質が見えてくる。安倍会見は、従来通り、内閣官房報道室と内閣記者会(正式名は永田クラブ、官邸記者クラブとも呼ばれる)の枠内で開かれた。一方、菅会見は騒々しい雰囲気はあったが、会場に入りきれないほどで、フルオープンだった。  安倍会見は、幹事社の記者などが事前に用意された問答集に沿って終わった。一方、菅氏の会見は三密状態で開かれ、参加した一部の記者から厳しい質問や、シャウティングクエスチョンもあった。  菅氏の出馬会見は海外では普通に行なわれる、国際標準のフルオープン記者会見だった。菅氏は、記者クラブに縛られない会見のお手本を自ら示したのだ。国内では、記者クラブを廃止した長野県庁(2001年~)と鎌倉市役所(1996年~)で開催されている。  後述するようにこの会見をもって「開かれた会見」と評価するメディアもあった。だが、実際はそのようなものではなかった。

安倍氏の辞任表明会見は官邸と記者クラブが演出

安倍首相辞任会見

8月28日、会見で辞任を表明する安倍首相(首相官邸ウェブサイトより)

 8月24日に首相としての連続在任記録を更新した安倍首相が28日午後5時から会見を開くことは、25日ごろから伝えられて27日に正式に決まった。会見当日の午後2時ごろ、NHKが「安倍首相が辞任の意向固める」と速報し、他局も約10分後にテロップで伝えた。  安倍氏は会見でプロンプター(原稿映写器)を使わなかった。司会はいつものように長谷川栄一広報官(首相補佐官)だった。安倍政権は日本にしかない記者クラブ制度を徹底的に利用して、言論統制を敷いてきた。このことも政権の長期化を可能にした大きな要因だ。  安倍氏の最後の記者会見では、長谷川広報官が内閣記者会の常任メンバー(幹事業務ができる大手企業メディア)の幹事社2社の記者2人に質問させた。その後、記者会の常任幹事社の記者たちを指名、最後に記者会以外の参加者の質問を受けつけた。 『西日本新聞』の川口記者のモリ・カケ・サクラ疑獄事件に関する質問はあったが、フリーランス記者も含めて、病気で辞める首相に忖度して厳しい質問は少なく、“花道”会見の様相となってしまった。 「ビデオニュース」の神保哲生氏が官邸による質事前の質問取りやメディア選別に関する質問をしたが、本質である記者クラブ制度の問題に踏み込まなかった。そのため、安倍氏に「会見の事前の質問を集めたり、メディアを選んだりすることは、どの政権もやってきたこと」と軽く流された。
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総裁選告示前から「菅首相」を既成事実にした派閥談合とメディア
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