気象庁のサイト
気象庁が、ホームページへのウェブ広告掲載をおこなうと7月6日に発表した(参照:
お知らせ)。15日には
NHKニュースにもなった。事前調査自体は、前年から進められていた(参照:
契約の概要調書)。背景には、気象庁の厳しい財政状況があるという。
気象庁の予算については、国土交通省気象庁のホームページに、
気象庁予算の概要というページがあり、ネット上から確認できる。過去20年分の予算概要が掲載されているので数字を抜き出して並べてみよう。
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気象庁関係予算の概要(予算総括表の単位は百万円)
令和 2年度(2020年度) 594億9200万円
平成31年度(2019年度) 607億6500万円
平成30年度(2018年度) 568億0300万円
平成29年度(2017年度) 574億0500万円
平成28年度(2016年度) 587億2800万円
平成27年度(2015年度) 586億9200万円
平成26年度(2014年度) 584億8300万円
平成25年度(2013年度) 556億6500万円
平成24年度(2012年度) 588億8400万円
平成23年度(2011年度) 590億3500万円
平成22年度(2010年度) 619億8900万円
平成21年度(2009年度) 637億9500万円
平成20年度(2008年度) 676億2600万円
平成19年度(2007年度) 686億9400万円
平成18年度(2006年度) 688億9800万円
平成17年度(2005年度) 708億0200万円
平成16年度(2004年度) 719億1800万円
平成15年度(2003年度) 727億7500万円
平成14年度(2002年度) 758億9300万円
平成13年度(2001年度) 763億5100万円
平成12年度(2000年度) 771億2600万円
2000年から2010年にかけて減り続けて、その後10年はおおむね安定している。20年前から比べると、予算は25%ほど減少している。様々な経費を削減しなければならないという強い圧力があることが想像できる。
近年、気象に起因する災害は非常に多い。気象情報は、国民の生命に直結する情報だ。当初発表された
アベノマスクの予算が466億円、観光需要喚起の政策である Go Toキャンペーンの予算が1.7兆円。そうした予算と比べて、日本の気象関係の予算は少ないのではないかと、思わず考えさせられてしまう。
今回は、そうした気象庁について情報をたどっていく。
気象庁と名前を聞くと、ぼんやりと天気予報をおこなう場所というイメージしかないかもしれない。しかし、その業務は気象だけでなく多岐にわたっている。気象庁のホームページにある、
気象庁の任務を見れば、その守備範囲の広さを知ることができる。
“気象業務は、気象や気候、海洋、地震、津波、火山等の自然現象の観察・観測、観測データの取得・収集、スーパーコンピュータ等をはじめとする各種システムを活用した解析・予測、情報の作成・提供、さらに、それらに必要な調査・研究などの業務をいいます。”〈
気象庁サイトより〉
頭上の空だけでなく海や陸まで含む、様々な自然現象の観測や解析などが、守備範囲になっている。自然災害の多い日本では、これらの情報は、早期の警報や避難の実施、長期的な計画の立案など、災害対策をおこなう上で基礎となっている。
このような仕事をおこなっている気象庁の発端は、明治時代にさかのぼる(参照:
気象庁の歴史)。明治4年(1871年)7月、明治政府は工部省に測量司を置き、東京府下の三角測量を始めた。この工部省測量司が、のちの気象庁につながることになる。
耳馴染みのない工部省とは、明治3年(1870年)に設置されて明治18年(1885年)に廃止された明治政府の官庁だ。殖産興業を推進するためのもので、鉄道・電信・鉱山・製鉄・造船などを管轄していた(
コトバンク)。測量という仕事は、これらを推進する上で必要な業務だったと言える。
明治6年(1873年)5月、工部省測量司は気象台を設けることを決め、ロンドン気象台長に気象器械のあっせんを依頼する。その時、気象器械の調達をおこなったシャーボーは、「日本は地震が多いと聞いたが、測点が移動しては困る。日本で測量をするには、まず地震観測が必要だ」と考え、イタリア製の地震計を気象器械とともに持参した。気象庁が地震も扱うのは、こうした背景がある。
明治7年(1874年)1月、気象観測をおこなう組織は、工部省から内務省に移管され、同年8月に内務省地理寮量地課と改称される。
この時代に存在した内務省は、内政の中心に位置する中央行政機関だ。地方行政や警察など対民衆行政一般を所管した。国民の監視を担い、のちに特別高等警察制度を全国に実施し、治安維持法を運用した。内務省は戦後廃止された(参照:
コトバンク)。
明治8年(1875年)5月、気象器械の据付けが完了し、同年6月1日、内務省地理寮量地課は東京気象台を設立し、気象の観測を開始する。この日は現在、気象記念日となっている。明治16年(1883年)2月からは、気象電報を全国から収集できるようになる。同年3月1日からは、毎日の天気図の印刷配布が始まった。
以降、組織の名称や所属はめまぐるしく変わる。明治20年(1887年)年1月、組織は中央気象台と改称され、明治28年(1895年)4月、気象事業は内務省から文部省に移される。さらに、昭和18年(1943年)11月、運輸通信省に移管し、昭和20年(1945年)5月に、運輸通信省が運輸省と逓信省に分かれたときに運輸省所管となった。昭和31年(1956年)7月には気象庁に昇格になる。
戦後の高度経済成長期が一段落ついた1970年代には、現在よく耳にするシステムの運用が始まる。昭和49年(1974)には、
地域気象観測システム(AMeDAS)の運用が開始する。昭和53年(1978年)には、
静止気象衛星GMS(ひまわり)による観測がスタートする。また、昭和55年(1980年)には、東京地方で降水確率予報がおこなわれるようになり、昭和61年(1986年)には全国で実施されるようになる。
そして、平成13年(2001年)の中央省庁等の再編に伴い、気象庁は現在、国土交通省の外局となっている。