ユングは、人間の立場にとっての「宗教性の重要さ」を強調していた
河合隼雄『ユング心理学入門』の中に、上記のことを説明したこうした一節があります。
ユングは、宗教とは、結局「ルドルフ・オットーがヌミノースムと呼んだものを慎重かつ良心的に観察することである」と述べている。しかし、ここに「観察」という言葉が入っているが、自然科学における立場と異なる点があることに注意されたい。
つまり、観察の対象となるヌミノース体験は、人間の心のなかに抗しがたい力をもって生じるものであって、意識的に起こしたり、制御したりできるものではない。この過程において、人間は観察者であると同時に、その作用そのものであり、自ら体験しつつ観察するのである。ここに、宗教の原語としてのラテン語の religio が、本来、「慎重なる観察」という意味をもっていたことは、示唆するところが大である。
そして、われわれの立場が、このような意味での宗教と深い関係のあることが、感じられることと思う。
実際、ユングはその心理療法において、このような意味における宗教性の重要さを強調しており、この点、宗教に対して否定的な態度を示したフロイトと、著しい対照をなしている。ここにユングのいう「宗教」は、特定の「宗派」をさすものでないことは明らかである。
河合隼雄『ユング心理学入門』(培風館)より
「(宗教での)ヌミノース体験は、人間の心のなかに抗しがたい力をもって生じるものであって、意識的に起こしたり、制御したりできるものではない」。このことは、 今の社会の状況に近いのではないでしょうか。
そして、
「この過程において、人間は観察者であると同時に、その作用そのものであり、自ら体験しつつ観察するのである。ここに、宗教の原語としてのラテン語の religio が、本来、『慎重なる観察』という意味をもっていたことは、示唆するところが大である」とあります。
体験しながら、同時に観察すること。体験者だけになるのではなく、観察者だけになるのでもなく。いま起きている現象を、「体験しながら、同時に観察する」という態度を保つ。慎重に、かつ良心的に。
こうした態度こそが、いまわたしたちがコロナウイルスという感染症の脅威に見えている深層で起きている本質を読み解くために、必要な態度ではないだろうかと思います。よく悩み、よく考えるためにも。
【いのちを芯にした あたらしいせかい 第2回】
<文・写真/稲葉俊郎>