「コロナウイルスと闘うのだ」「コロナウイルスを撲滅するのだ」という表現への違和感
いまわたしは東京を離れて軽井沢に住んでいますが、この地には多くの自然が残っています。自然界と人間界とが共生するためにどういうバランスが最適なのか。そうしたことを住民たちが共に考えて作り上げてきた歴史があります。
森の中にいて、Wi-Fiもつながらない環境を歩いていると、人間界の情報からは取り残されますが、逆に生命界からの情報が溢れていることに気づきます。
学生のとき、よく冬山を縦走しました。登山を終えて街へと下山してきたとき、まるで自分が動物になったような視点で人間の生態を客観的に観察するように視点が変わっているのを感じました。みなさんにも、そういう体験はないでしょうか。
人間の視点ではなく、動物の視点から、植物の視点から、鉱物の視点から、この世界を見た瞬間。そのとき、何かこの現実が歪んだような、自分が信じていた常識が揺らぐような、この世界の多層のリアリティが同時に存在していることを実感したことはないでしょうか。それは、夢を見るように現実を見て、同時に現実を見るように夢を見ている感覚に近いのではないかと思います。
「コロナウイルスと闘うのだ」「コロナウイルスを撲滅するのだ」と、ラジオやテレビから聞こえてくることがあります。わたしはこうした表現に常に違和感があります。
なぜなら、それはまるで「戦争」が起きているかのような表現ですが、「戦争のメタファー」を使って生命世界の現象を説明すると、わたしたちの意識は間違った方向へと引っ張らてしまうのではないかと危惧しているのです。
「戦争」という手段による解決法は、人間界の中でもごく一部のごく少数の人たちの間での解決法であり、特殊で例外的な手段ではないかと思います。
そもそも、ウイルスは敵ではありませんし、同時にも味方でもないのです。ウイルスのほうが、この地球上には太古から存在していました。あらゆる遺伝子変異を起こしながら、環境を生き延びてきました。
人間は地球上の生命としては新参者です。約600万年前、人類が類人猿から分岐し二足歩行を始めたとされます。新参者こそ大きな顔をするのはどこにでもある話なのかもしれません。
ウイルスは生命のようでもあり非生命のようでもあると言われます。それは生命の定義次第でもありますが、ウイルスには「細胞」のような閉じられた構造がなく、いわばDNAがむき出しのような状態で、他の生命のシステムを使って複製や増殖を繰り返しているからです。
ウイルスは、「情報(遺伝情報)」が移動しているような奇妙な存在です。(もちろん、ウイルス側から見たら人間の生態の方が奇妙な存在にうつっているのかもしれません)。
そんなウイルスと人間を含めたあらゆる生命は、最終的にはなんらかの形で共生することで落ち着くでしょう。ウイルスがまったく消えてなくなることはあり得ません。