稲葉俊郎医師「ウイルスは“撲滅”できない。共生するしか道はない」

人間とその他の生命とは、ある平衡状態に落ち着き、共生するしかない

植物の花粉 太古からいたコロナウイルスは今後も定期的に流行し、感染し、「情報」を伝える媒体として人体という生態系を利用するでしょう。「情報」を伝えるために人間が都合いい時期には、人間を「情報」の乗り物のように利用します。まるで植物の花粉が移動しているように。  人類の移動がこれだけ地球規模になったことで、得るものもあれば失うものもあります。グローバリズムで得たメリットの裏側には、コロナウイルスの流行のような感染症の問題は、起こるべくして起きた問題です。自然破壊によりあらゆる生き物の居場所が奪われていることも関係があるでしょう。  今後、こうした事態が消え去ることはなく、同時代に生きる私たちがどうやって創造的に乗り越えていくのかが求められています。  ウイルスを含めて人間とその他の生命とは、ある平衡状態に落ち着き、共生する道しかありません。どんなことでも、相手の側に立ってみて考えることは大切です。  ここは一つ、一度深呼吸をしてみて、ウイルスの側に立って物事を考えてみれば、何がいま本当に大切なのかが分かるような気がします。相手の立場に立って考えてみることは、対話や人間関係の基本でもあるのですから。

コロナウイルスにまつわる地球規模の社会現象は、宗教的な体験にも近い

観察する態度 自然科学においては「観察」する態度が重要です。ただ、そこにも欠点があります。科学での観察は、対象と自分とを切り離し、自分とは関係ないものとして蚊帳の外から安全地帯から観察するような立場をとります。  わたしが従事する医療にも「医学」という「科学」の側面があるのですが、科学がもともと持っている「自分とは関係ない」という観察の態度が、時に逆効果になることもあります。  心理学者のユングは、宗教での観察は「体験者として観察する」立場であると言いました。こうした態度は、宗教だけではなく芸術における立ち位置にも近いのではないでしょうか。  コロナウイルスが流行している今、わたしたちが大切にしたい立ち位置は、科学的で理性的な態度を大切にしながらも、同時に宗教や芸術の世界が扱っているような「体験しながら観察する」立場でもあるのだと思います。  いま、地球規模で起きている社会現象を見てみると、コロナウイルスにまつわる事柄は科学的な対応が必要でありながら、同時に宗教的な体験に近いようにも思うのです。  集団が濁流に飲み込まれるように何か見えない大きな力で動かされていくとき、宗教的体験に近い力学が、集団の中で働いているように感じられます。
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人間の立場にとっての「宗教性の重要さ」
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