現代のルッキズムを考えるこのコラム、
第1回は産業ロボットの導入期に見られたキモい話を、
第2回は全国キャンディーズ連盟のキモい話を紹介しました。現在の私たちが感じている
“キモい”という感覚は、その歴史的起源を1970年代にもっているだろう、という仮説をたてました。
「キモい」という言葉が指し示す範囲は、非常に広く、深いものです。それは特定の外見的特徴を指す言葉ではありません。それは外見であるよりも、その人の言葉遣いや行動の様態にかかわっていて、社会学の用語でいう
“ハビトゥス”の領域を指しています。“ハビトゥス”とは、その人の身についた振る舞い、その人の身振りからうかがえる社会的位置、身振りが含んでいる思考様式です。「キモい」という表現は、たんに人間の外見をあげつらうのではなく、外見をとおして人間の中身をえぐっていきます。90年代にこの言葉が使われ始めたころ、「キモい」はもっと軽い意味だったのかもしれません。しかしこの表現が流行し、人口に膾炙するうちに、「キモい」は人間を深くえぐる言葉になっていきました。
「キモい」という言葉には、
充分に大人になれていない、幼児的である、という意味が含まれています。私の付き合っている友人には、こういう人間がたくさんいます。私たちはいわゆる「就職氷河期世代」ですから、同世代の友人は企業に属したことのないフリーターや、フリーランスだらけです。中年を過ぎても収入は不安定で、結婚しないで独身のままでいる男性もたくさんいます。私はある理由があって結婚することになって、子供も授かりましたが、それにしても充分な稼ぎのある立派な父親ではなく、妻の収入に頼って生計を立てている「主夫」のような状態です。大の男が平日の昼間にぶらぶらしているのです。赤塚不二夫が描く「
バカボンのパパ」のようなものです。
90年代の就職氷河期は、収入の不安定な下層労働者を大量に生み出し、“
大人になれない大人”を一般的なものにしました。そして誤解のないように付け加えると、問題は
就職氷河期であぶれてしまった失業者ではないのです。氷河期世代の男たちは、大人が大人になれない状況を見えやすくしたにすぎません。
本当の問題は、企業に所属して稼ぎの安定している男たちもまた失業者と同じ不安定な構造のなかにあって、いつまでも大人になれないという経験をしているということです。就職に失敗した下層労働者や失業者は、自分が大人になれていないということを自覚しています。そのことを自覚しているぶん、まだ軽症だと言えます。本当に問題なのは、自分はきちんとした会社に勤める立派な大人だと考えている人々です。彼らは自分の客観的な姿を充分に自覚しないまま、“
大人になれない大人”になっているのです。