相次ぐ医療従事者への「英雄化」と「いじめ」。両者に共通する近代国民国家がもつ宿痾

「祀り上げ」て、排除する

 さらに、現状、医療従事者やインフラ関係者は単に感謝され、褒めたたえられているのではない。報道によれば、本人や家族が公共交通機関、学校、保育園、その他公共施設など、様々な場所から排除される「コロナいじめ」の対象となっているという。コロナウイルスの感染源であるというのが口実だ。感謝される一方で、嫌悪され、遠ざけられる。一見矛盾した現象が、この社会の中で起こっている。  以前の記事で述べたように(新型コロナウイルスによる「緊急事態」の宣言。起こりうる「人権の停止」に抗うために。)、コロナ禍に巻き込まれた日本は、「例外状態」の中にある。「例外状態」において、われわれが有する普遍的な人権は宙吊りにされ、人は「剥き出しの生」の中に投げ込まれている。  そして、変容してしまった世界の中で、法の外側に、権利が停止された空間に放逐されたのが、医療従事者やインフラ関係者なのだ。「英雄」として祀り上げられるのも、「ウイルス保菌者」として排除されるのも、本質的には同じだろう。要は、「非-人間」ということだ。人間であるとみなされていないから、英雄として消費したり、いじめの対象としたり、好き勝手にできるのだ。  通常状態においては、人は英雄を必要としない。そして、いかなる理由があっても、いじめや排除は認められない。一方で人権が停止した「例外状態」の下では、人は容易にいじめや排除を行う。そして英雄は、そのためにこそ必要とされるのだ。  人々は、医療従事者やインフラ関係者に感謝し、その返す刀でパチンコ業者を排斥する。医療従事者のために通天閣がライトアップされた大阪で、営業を続けているパチンコ業者の名指しが行われたことは象徴的だろう。また、子供がいても休めない看護師をヒーローだと称えながら、(のちに撤回したとはいえ)国は学校休業にともない休暇をとった保護者の支援金から、風俗業を排除しようとしていたことも忘れてはならない。この国の人々は隙あらば、のけものやスケープゴートを探し続けている。  靖国神社に祀られた英霊がいて、非国民がいる。現場で頑張っている医者や看護師や運送屋がいて、自粛に従わないパチンコ業者がいる。これらは双極性の関係にある。だがしかし、これらの両極は、「非-人間」の空間において揺れ動くだけである。結局は英雄も、疎んじられていることに変わりはないのだ。

「英雄化」のくびき

 「英雄化」の例は、このコロナ禍だけではなく、ほかにもある。たとえばFukushima50だ。2011年の福島原発事故において、最悪の事態を回避するため現場にとどまった作業員たちはFukushima50と呼ばれ、映画化もされている。しかしこれも、彼らを英雄化し、神話化することで、いまだなお汚染が残る被災地の現状から目を逸らさせることを可能にしているのだ。  戦争であれ、原発であれ、疫病であれ、国民の神話に基づいた国民の祭祀にケチをつけるものは、団結を妨害する無法者ということになる。日本社会はずっとこの圧力にさらされてきた。いや、日本だけではない。冒頭で述べたように、そもそも医療従事者への感謝は海外発なのだ。どんなにリベラルな国家であれ、「英雄化」の誘惑には勝てない。これは、近代国民国家がもつ宿痾のようなものであろう。  だがそれでもこうしたムードに対しては、積極的に水を差していくべきだ。少なくともこの国では、国民の神話に乗っかって団結し自粛に精を出したことへのご褒美は、せいぜいアベノマスク2枚でしかないのだから。 <文/北守(藤崎剛人)>
ふじさきまさと●非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82
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