医療従事者に感謝の気持ちを表すブルーライトアップした通天閣(写真/時事通信社)
新型コロナウイルスに対して、最前線で働いている医療従事者に、市民が敬意と感謝を示す運動が国内外で広がっている。ある特定の時間に、市民が窓辺やバルコニーから一斉に拍手を送る「Clap for our cares」は、イギリス発のキャンペーンで世界的に広がり、日本でもいくつかの市役所などで行われている。
東京タワーや大阪の通天閣などでは、医療従事者への感謝のため、青色にライトアップをするという催しを行っている。また神奈川県では、「がんばれ!!コロナファイターズ」というスローガンが記されたステッカーを作成した。FIFAは、医療従事者を真のヒーローだとして、応援する動画を投稿。日本のスポーツ界にも同様の動きが広がった。
こうした感謝を示す動きが拡大する一方で、それに対する批判的な声も、医療従事者の中から起こっている。医療関係者やインフラ関係者をヒーローとしてイラストを描くことによって、エールを送る、「#GratefulForTheHeroes絵」が、ある漫画家の呼びかけによってSNS上で始められた。
ところがこの動きに対して、SNS上で医療関係者から批判が相次いだ。現在の日本の医療現場は、まさに「地獄」と化している。その中で、非当事者が安全な場所から自分たちをヒーローに祭り上げ「応援」するという構図は、結局は自己満足としか思えず、不愉快である、と。自分たちは、「ヒーロー」になろうとした覚えはない、と。こうした声を受けて、医療従事者やインフラ関係者への応援ムードについて、議論が巻き起こっている。
小泉進次郎環境大臣は4月29日、感染リスクを負いながらごみ収集の仕事をしている人に対して、ごみ袋に応援のメッセージを書こうという提案をした。この一国の閣僚としてはあまりにも稚拙であるとしかいえない提案については、流石にまず政府が具体的な支援を行うべきだという抗議の声があがった。
筆者は、医療従事者やインフラ関係者に対して、感謝の気持ちが湧いてしまうこと自体が悪いことだとは思わない。もちろん、そうした気持ちを表明することによって、勇気づけられる人もいるだろう。また、単なる感謝ではなく、そうした人々に対して危険手当をつけたり、必要な資源を優先的に割り振るなどの具体的な支援は、当然ながら早急にやるべきだと考える。
しかしながら、やはり上述で示した特定の人々を英雄化するような集団的パフォーマンスは、数々の批判が指摘するとおり、ある種の自己満足でしかない。拍手やライトアップは、「前線」にいる彼らを応援するというよりは、むしろ「銃後」における「われわれ」の団結力を鼓舞する効果をもつ。もしかすると、行政の担当者はそれを確信的に行っているのかもしれない。いわば、このようなパフォーマンスは、医療従事者、インフラ関係者を一種のモニュメントとして消費し、感謝や敬意を示してまつりあげる「祭祀」なのだ。
たとえば、民主主義体制であれ、権威主義体制であれ、各国で行われている戦死者、つまり「英霊」の追悼は、国民統合のために必要な「祭祀」に他ならない。「前線で戦う者」たちへの顕彰を行うことによって、「銃後」の市民たちは、いわば慎ましく従順であることを強制されるのである。コロナ禍におけるパフォーマンスも、市民に対して、一種の謙虚な観念を植え付ける。現場のお医者さんや看護師さんはがんばっている。われわれ市民は、かれらのためにも厳しい「自粛」生活に耐えねばならぬ……。
だが、報告されている実際の医療現場は想像以上に過酷である。ICUは埋まり、院内感染の可能性が常にある。マスクは恒常的に不足しており、使い捨てのものを洗浄して繰り返し使用している病院も多い。そこには、イラストに描かれるような英雄は存在してはいまい。
しかし、彼らをヒーローとして顕彰する集団的な「祭祀」は、現実の神話化を引き起こす。戦没者祭祀がもたらす戦争体験の神話化が、戦争の悲惨さを現実的に体験したあともなお、人々に戦争への熱狂を維持させたように(G・モッセ、宮武実知子訳『英霊』柏書房、二〇〇二年、一一二頁参照。)、いつ完全崩壊してもおかしくはない現場の状況から目を背けさせ、国民が一致団結することによってこのコロナ禍に打ち勝つのだというナショナリズム的な夢想に、人々を浸らせるのだ。