混迷する共通テスト、どこに責任があるのか<短期連載:狙われた大学入試―大学入学共通テストの問題点―>

非専門家の発言が混乱を増幅する

 2019年11月1日に英語の民間試験の延期が発表されました。その決定を聞いて、複数の高校の校長先生が、 「わが校では、ケンブリッジ英検の準備をやってきたのに、何てことしてくれたんだ!」 という発言をしました。  この発言には、私は少し疑問です。本来、公教育である高校は、特定の民間試験の勉強をする場ではありません。学習指導要領に従いきちんと学習していれば自然に民間試験のスコアを取れるというのが本来の姿ではないでしょうか。  とはいうものの、この校長先生には若干同情するところもあります。それは、例えば私立の中高一貫校などの場合、大学の合格実績が翌年の募集に影響するからです。毎年、春に東大合格者数のランキングが掲載されます。東大合格者数は一つの指標ではあるので、それを私立学校の経営者は強く意識します。その校長先生は思わず本音が出てしまったのでしょう。ですから建前を忘れるくらいの動揺だったのかもしれませんが、公教育は軸足を誤ってはいけないと思います。  同じように、共通テストの数学と国語の記述式についても、 「きちんと準備してきた人がかわいそうだから、実施すべきだ」 と発言する人もいます。これも同じことです。記述式のために勉強するのではなく、きちんと学習していれば、記述式であってもマークシート方式でも点数は取れるのです。だったらどちらでもよいではないかということにはなりません。記述式は公平な採点が危ぶまれる、自己採点ができない人がいる、一社の価値観に支配されていくという点が問題だからよくないのです。そして、数学の記述式の問題では「きちんと準備する」とは、どのようなことをするのかよくわかりません。

声がでかいだけの非専門家の声を取り上げるメディア

 後半は、非専門家の発言ですが、このような考え方を個人がもつことは自由です。なお、非専門家の中には、数学の記述式の件で言えば、数学者を名乗るものの、数学教育そして数学からも離れた人も含みます。問題なのは、非専門家のこうした発言をメディア等が大きく取り上げすぎて、専門家の多数の意見を消してしまうことです。 専門家の100の意見を発信力のある非専門家の思い付きによる発言がそれらをすべて吹き飛ばしてしまう  これが残念な実情です。教育の問題はいろいろな方が参加しやすい問題で、それはよいのですが、発言は自由であったとしても、多方面で活躍していても教育に関しては素人同然の方の意見がこの問題を混乱させることがこれまで多々起こっています。
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「共通テストありき」の会議と民間業者のすり寄り
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