・村長による上述のような努力はあったものの、残念ながら、発生した風評被害は小さなものではなかった。被害は東海村にとどまらず、茨城県全県に広がった。東海村では特に農作物への影響が大きかったようで、JCOに対し多くの損害賠償請求が出されている。この時の損害賠償の経緯については、例えば以下の文科省資料に細かな記録がある。
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JCO臨界事故時の原子力損害賠償対応について(文部科学省)
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その別紙「補償対策等一連の動き」(同上)
損害賠償については、村上氏は村が先頭に立って対応することを心掛けたそうである。実際、村内に損害賠償対策協議会が立ち上げられた時には、村上氏自らがその会長に就いたほか、損害賠償の交渉の場に村役場の職員を立ち会わせるなどの支援を行っている。東海村のこういった対応は、上で紹介した文科省資料では次のように称賛されている。
「被災者に最も近い立場である村は、被害の拡大防止や賠償交渉の仲介役として重要な役割を果たした」
「県及び村の職員が交渉窓口となることにより、感情論にならず妥当な請求を促すことができたとの評価が多い」
避難判断にまつわる苦悩と称賛
・この事故では近隣住民の避難までが行われたが、
東海村から住民に対して行われた避難要請などの知らせは、国や県からの指示を待たず、村上氏が独断で行ったものとされている。この判断については称賛する声が多く、国の原子力安全委員会(現在の原子力規制委員会)も後になって
「今回の事故においては国の初動対応が必ずしも十分でなかったため、結果的には非常に適切な措置であった避難要請は国や県の指導助言なしに東海村長の判断で行われた」<*参照:
ウラン加工工場臨界事故調査委員会報告の概要(1999年、原子力安全委員会)>
と、村上氏の判断の適切さと国の初動対応の不適切さを認めている。
村上氏は講演で、「あのとき、避難範囲を“350 m圏内”としたことについては、いまだに正しかったかどうか分からない」と告白した。ちなみに、放射線量率については、
事故現場から約350 mの地点にも(屋外で)80~90 μSv/hほどにもなる場所があったという報告*がある。
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原研の保健物理関係の取り組み(2000年、山本ら)>
これなどを見ると、筆者は「避難範囲はもう少し広くてもよかったのではないか」と思うが、これは完全に“後知恵”というものであろう。
先行きの見えぬ未曽有の事態のなか、自治体の長として迅速な判断を繰り返し求められた村上氏が背負った責任の重さは、一村民でしかない筆者の想像を絶している。