・前の記事で触れた田中俊一氏と同じく、村上氏もこの事故の原因と責任を
JCOだけに被せることには大いに不満があるようだった。直接の事故原因はもちろんJCOによる複数の違反行為であるが、
発注者である核燃料サイクル開発機構や、監督官庁である科学技術庁(現在の文部科学省の一部)には責任がないと言い切れるのか。例えば、発注者からJCOに対し、違反を誘発するような要求がなされたことはなかったか。そして、監督官庁の安全審査はまともに機能していたか。違反の見逃しなどはなかったか、ということである。
ちなみに、同じことは事故後に様々なところで議論されており、国会での答弁にまで登場している。例えば、2002~2003年の「
JCO臨界事故と安全審査に関する質問主意書」とその答弁に記録が残されている。なお、この質問主意書の提出者は
福島瑞穂参議院議員である。
・この事故では、国道6号線や常磐自動車道の一部区間が通行止めにされたり、JR常磐線の一部区間が一時運休にされたり、久慈川からの取水が中止されたり、近隣で予定されていた様々なイベントが中止されたり等々、かなりの大騒動が起こった。そのため、新聞やテレビによる報道はいささか過熱気味になっていた。
そういった状況を見て村上氏は、「東海村は終わったかもしれない」と絶望的に思ったそうである。核燃料が原因で起こった事故であり、さらに、多くの被ばく者が出たこともあり、「東海村は放射能汚染地域である」というレッテルが貼られてしまうことを村上氏は恐れたのだ。
そのような事態になるのを可能な限り防ぐため、村上氏は村長として以下のことを心掛けたそうである。
(1) 放射線が漏れた事故であり、放射能汚染事故ではない、ということを強調する。
(2) 徹底して環境の放射能測定を行い、徹底してその結果を公表する。
(3) 徹底した被ばく診断(つまり、被ばく量の測定や推定)と健康診断を行う。
これらが本当に実行されたのか、それとも口先だけなのか、以下で少し検証してみよう。
多くの研究者・技術者の協力があり、(2) と (3) の測定や推定については実際に事故直後から多数の実施例がある。現在でも入手しやすいものでは、例えば以下の3つの資料に様々な記録がある。
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JCO臨界事故における原研の活動(2000年、日本原子力研究所)
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JCO臨界事故の終息作業について(2001年、核燃料サイクル開発機構)
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東海村ウラン加工工場臨界事故に関する放医研報告書(2001年、放射線医学総合研究所)
また、測定から得られた結果はこれら3つの資料を含め様々な形で公表され、ジャーナル論文になったものもある。例えば、土壌等の環境の汚染調査に関するジャーナル論文には以下のようなものがある。
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Radioactive contamination from the JCO criticality accident(2000年、Koideら)
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The JCO criticality accident at Tokai-mura, Japan: An overview of the sampling campaign and preliminary results(2000年、Komuraら)
前者は小出裕章氏や今中哲二氏など京都大学の4名による論文、後者は金沢大学の小村和久氏が率いたプロジェクトによる、総勢43名の研究者が参加した論文である。
上記の資料その他の報告を見るに、寿命の長い、厄介な核種のはっきりとした検出例は確かに無い。半減期が約30年あるセシウム137(福島第一原発事故後に大問題になっているあの核種である)が検出された例はあるが、検出値がJCO事故“前”の測定値の範囲内であるため、その大部分あるいは全部が過去の核実験に由来するものと結論付けられている。このように、長寿命核種のはっきりとした放出が無かったことは、JCO事故の不幸中の幸いの一つであった。
このことから
、(1) の中の「放射能汚染事故ではない」はおよそ事実と言えるだろう。村上氏は東海村を守るため、このことを新聞紙上で強調したり、IAEA(国際原子力機関)に訴えたりしてきたそうである。
ただし、正確を期するため加えておくと、
初期の調査で寿命の短いヨウ素131(半減期は約8日)やヨウ素133(同20.8時間)などが検出されたとする報告は複数ある。上に挙げた5つの資料の中では、日本原子力研究所の報告書と2つのジャーナル論文がそのことに触れている。したがって、
放射性物質の幾ばくかの漏えいがあったこともまた事実なのである。
前の記事でも既に触れたが、
(3) の健康診断も実際に行われている。例えば、近隣住民に対する健康診断は現在でも続けられており、東海村の広報誌
『広報とうかい』の2018 年10月25日号には、昨年度の健康診断の予定が記されている。
以上のように、村上達也 前東海村長は、口先だけの人ではなかったのだ。