れいわ新選組は決して政策的には新しいムーブメントではないと述べた。
日本の左派のねじれの原因の一つには、政策と選挙のねじれた関係がある。れいわ新選組の候補者だった安冨氏のブログを引用する。
”
私は、山本太郎のれいわ新選組は、いわゆる「政党」ではない、と結論した。ここで言う「政党」というのは、その目的を「綱領」という形で明文化し、何らかの「政策」を掲げて選挙を戦い、議席を獲得して綱領の実現を目指す、という共通の目的を持った集団のことである。
実のところ、この定義にきちんと当てはまる政党は、日本共産党、しかないであろう。ほかの政党は、「選挙に当選して議員になりたい」と思う人が集まって、票を得られる方法をいろいろ考え、それを綱領や政策として出し、「政党」のフリをしている集団に過ぎない。それでも、フリをしないといけないので、候補者が党の掲げる政策に反対だと公言するわけにはいかないし、綱領と関係のない政治理念を掲げることにも大きな問題が生じる。その上、往々にして選挙のやり方も、支持母体となる組織が主導権を握り、候補者はそれに従って運動することになりがちである。”(参照:
安冨歩氏のブログ)
この安冨氏の考察に書かれたような前提のもと、伝統的に日本の左派は「
減税と社会保障の両立」という実現困難な政策(時に財政再建も含む)を選挙のたびに掲げることになり、それらは細川政権・鳩山政権など左派政権実現のたびに破綻した。
細川政権は国民福祉税導入で瓦解し、民主党政権は最終的に消費増税に踏み切らざるを得なかった。
村山政権は、社会党が消費税廃止法案を提出していたにも関わらず、2%増税を決断せざるを得なかった。
民主党政権は所得税、法人税などの累進性強化を一定程度行い、更に行政改革で予算を捻出しようと考えたが、最終的には消費増税を含む一体改革を選んだ。
左派が大きな政府を選挙では語らず、増税無く社会保障の増大に対応しようとすることが、左派政権の安定性を損ねてきた。
では、なぜ日本の野党の政策は、そのような総花的、あるいは八方美人なものになってしまうのか。
「票を取れるか」で物事を判断する癖がついた日本の有権者
私は、野党支持層、いや日本の有権者は、「
票を取れるかどうか」で物事を判断する癖をつけてしまっているのではないか、と見ている。
このような考え方のもとでは、すべての政策は「集票力があるか」、もっというと「ウケがいいか」という視点でのみ判断され、更に有権者は「この政策ならウケがいいのに、なぜこのような政策を打ち出さないのか」というねじれた義憤を持つようになる。
支持者個人がその政策をどう捉えるかではなく、支持者が「どの政策なら勝てるのか」を基準に政策を考えるようになるのだ。
「野党は消費税減税でまとまれば選挙に勝てるのに、なぜやらないのか」というような言説は、このような思考をもとにして発せられる言葉ではないか。
私は、れいわ新選組の支持層には「
選挙に勝てるような政策を打ち出している党を支持する」という層が一定程度存在すると見ている。
「この政策なら野党は勝てる」と考え、そこに高揚感を感じる人たちもいるのだろう。
しかし、そのような思考のもと選挙に勝った野党がその後なぜ政権を維持できなかったか、を考えると、このような思考はやはり、政策をもとに政党を選ぶという有権者のあり方とは大きくかけ離れたものではないか。
ここには、政党を選ぶと言いながら人を選ぶ、非拘束式の全国比例という制度のいびつさも透けて見える。