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2009年9月から2012年12月までの3年3ヶ月は日本政治ということでいえば、期待と失望がないまぜになった時期だった。それと同時に、現在につながる政治社会的基盤が概ね完成をみた時期でもあった。 小泉内閣とその後の短命内閣の混乱を経て、90年代初頭に構想された二大政党制がいよいよ具現化することに期待感も高まった。民主党への期待感は一朝一夕に高まったものではなかった。
今ではすっかり忘れられてしまっているが、2000年代前半を通じて民主党は寄せ集め所帯ではありながら、各界との人的交流、ネットワーキングを行い、対立軸を形成した。マーケティング手法に導入し、外資系PR企業や従来と異なるPRパーソンの採用などによって、新しいキャンペーン手法を模索した結果だった。新しい政治を表現するにふさわしい新しい政治の言葉の模索でもあった。民主党政権でも著名なテレビジャーナリストを内閣広報室の審議官として登用するなど官邸の広報への注力は認められた。小泉内閣と当時の自民党は新しい情報発信手法の戦略と手法を探してきたが、民主党もそれらと切磋琢磨しながら戦略と手法を磨いてきた。
いつの時代にも業界関係者、地元の名士、官僚OBなど政界進出を考える人は一定の割合で存在する。与党に現職国会議員が多数存在するとき、それらの新規参入者らは当然ライバルになるから疎まれがちだ。求心力ある野党が新規参入者らの受け皿になることができれば、新規参入者たちは野党からの出馬を真剣に検討する。当時の民主党がそうで、人々の改革への期待感もあって政界進出を希望するものの格好の受け皿となった。
本来、日本の与党一強状況にはスタビライザーが組み込まれているのだが、現在は様々な事情でそれらは機能しておらず、政治システムと与党内外の競争を基底に置いた緊張関係は極めて脆弱な状況にある。
「政治の言葉」という点でいえば、2005年のいわゆる郵政選挙で大敗した民主党だったが、NPOや市民社会との密な関係を活かしながら、わかりやすさと身近な言葉を多用した新しい政治の言葉を模索した。鳩山総理が就任の所信表明演説で言及した「新しい公共」は権威と大文字の政治、経済、社会に軸足を置いた自民党政治と当時の民主党を明確に区別した旗印となった。
新しい政治の言葉を模索したのは民主党だけではなかった。もうひとつの象徴は2008年大阪府知事選挙に立候補した橋下徹だ。橋下はいわゆるタレント弁護士だったがその切れ味鋭い論調が世論に支持されていたが、政界に進出。大阪都構想の実現と身を切る改革を標榜しながら、さらに2000年代の少数政党などから急速に人材を確保し政策面での妥協と変更を重ねながら国政への進出を果たした。民主党政権のもとでは、少数政党ながら巧みな交渉術と政治手腕で2012年に大都市地域特別区設置法を成立させた。
同法を背景に、大阪都構想実現の是非を問う住民投票を2015年に実施した。結果は僅差で否決。橋下は政界引退を発表したが、現在に至るまで政権との距離が近い論客として大きな存在感を見せている。
言論の流通を支える新しいメディアであるインターネットの普及とメディア環境はどうか。ブロードバンドの普及が一巡し、各通信キャリアはスマートフォンへのシフトを本格化させていった。東日本大震災をきっかけに、公的機関も広報のツールとして本格的に注目し、広告費を含めて日本のメディアの中心がいよいよインターネットを中心としたものに実体化し始めた。現在では国民的ツールとなったLINEの誕生も震災直後の2011年のことであった。
インターネットの利用者は1億人手前でやや頭打ち、人口普及率でいうと80%程度といったあたりだ。この数字は少子高齢化が進む日本では、乳幼児や後期高齢者等を除く、ほぼ全ての人に概ねインターネットが普及したといえる。
モバイル端末からのインターネットアクセスは今よりも低調だが、この後のスマートフォン普及によって爆発的に改善することになる。