ABC / PIXTA(ピクスタ)
「メディアと政治」の共犯関係が構築された2000年代
日本社会が本格的に変化し始める「
移行と試行錯誤の時代」と評したが、ポスト昭和、つまり平成の時代が本格化するための試行錯誤がなされていた2000年代。
この時期は、小泉純一郎に代表される「劇場型政治」と「ワンフレーズポリティクス」によって、政治とメディアが共犯関係となった時代だと言える。
果たして、そんな時代に何が語られたのか。
前回は、
「『現代用語の基礎知識』選 ユーキャン 新語・流行語大賞」のサイト内の「過去の授賞語」について、2003年までの「政治の言葉」を取り上げたが、今回は2004年以降について言葉を選評とともに取り上げて論評する。
●2004年
(トップテン)サプライズ/武部勤(自由民主党幹事長)
”英語 surprise は「びっくりさせる」の意味だが、小泉首相に関しては単なる「サービス」の意味で使われる。第1次内閣から田中眞紀子外相など組閣にあたって意外な女性を採用。このコトバは拡大解釈され2004(平成16)年7月の参院選前に突然訪朝してジェンキンスさんを返せと金正日総書記に迫った行動なども、小泉流サプライズ。同年9月の第2次組閣ではついに「ノーサプライズ」とがっかりされる始末。~『現代用語2005』社会風俗用語より~”
政治のサプライズはメディアにとって蜜の味といわんばかりに、小泉の一挙手一投足にメディアは注目した。劇場型政治のひとつの完成形を見る郵政選挙まであと1年。
小泉の打ち手を官房副長官、自民党幹事長、官房長官と間近で見ていたのは安倍晋三その人であり、いまも周辺を固める人々だ。
我々の社会はいつの間にか、
政治をサプライズなしに眺められない体質になってしまった。サプライズがなければ物足りなく、サプライズがあれば喝采する我々の体質を政治はじっと見ているはずだ。人々の反応の一歩先を行くことができれば、生き残ることができるだけに彼ら彼女らは感じのよい笑顔の裏で必死だ。インターネットやソーシャルメディアはそれぞれの陣営にとって耳に心地よい言葉ばかりを届ける傾向にある。
政治の言葉を冷静に咀嚼できる成熟した社会へと至る途はいかにして可能か。改めてそんなことを考えてみたい。
(トップテン)自己責任/該当者なし
”本来はリスクをとって行動した者が自ら「結果責任」をとることをいうが、最近では責任を転嫁する際にしばしば用いられている。特に自己責任という言葉が頻繁に用いられたのは、2004(平成16)年4月、戦闘が続くイラクで発生した武装グループによる日本人人質事件のときだった。3人の日本人人質に対して自己責任という言葉が向けられたのだ。政府の勧告を無視してイラクに向かったのだから、自業自得だという議論だった。彼らが果たそうとしたイラクの子供たちへの支援や真実の報道という尊い目的は無視され、政府に迷惑をかけたことだけがクローズアップされた。全体主義の下で、自ら考え、独自の行動をした人を切り捨てるための言葉が自己責任となってしまった。~『現代用語2005』くらしと経済用語より~”
イラクで武装勢力に拉致された日本人人質事件に対して、総じて人々は冷ややかな眼差しを送った。その後、幾度も繰り広げられることになった同種の事件では複数の死亡者が出たにもかかわらず概ね同様の世論が定着してしまっている。無事帰国することができた当時の人質の一人今井紀明氏は、帰国後、まちなかを歩いていたら知らない人に殴られたこともあると述べている(参照:
「後ろから突然殴られた経験も」イラク人質事件の今井紀明さんが改めて語った”自己責任”|AbemaTIMES)。
「自己責任」のレッテルは溜飲を下げ、
一瞬のカタルシスを得られるのかもしれないが、多くの社会問題の解決にはつながらない。社会学者のアンソニー・ギデンズは『左派右派を超えて――ラディカルな政治の未来像』(松尾精文・立松隆介訳、而立書房、2002年)において、保守派は従来市場に委ねなかった(≒護持すべきだと思われていた)対象まで語義矛盾だが革新的に市場依存に陥っているという。
本質的に区別なく擁護すべき対象であるはずの国民に対して恣意的な選別を行う国家はいずれあなたを擁護の対象外と恣意的に判断しかねないということを、安易な自己責任論を口にする前に想起すべきだ。