茨城大ゼミ「宗教と報道」発表の拙さと「オトナの責任」

組織ジャーナリズムの問題

 今回の学生のインタビューやアンケートの対象となった110人の記者の内訳は、新聞53人、テレビ51人、雑誌6人。つまり大半が組織ジャーナリズムの関係者たちだ。  TBSによる検証番組の中で、社会部長から「上の決定だからどうしょうもない」と言われたとするTBS司法担当キャップの証言が登場する。個人の良識や判断だけで会社を動かすことはできない。TBSビデオ問題に限らず、組織ジャーナリズムの宿命だ。  たとえば「自分はオウムを問題視していて取材もしていたが、デスクにボツにされた」「自分は担当しなかったが、自分が所属するメディアでは担当記者がものすごく頑張って健闘していた」といったケースは容易に想定できる。  しかし学生たちのアンケートの設問では、組織と記者個人とが全く区別されていない。全ての設問と回答が、記者自身を主体とした文脈だ。たとえば「危険性を感じたとき追求したか」の回答は「追求した」「単発でのみ報じた」「報じなかった」。「追求しなかったのはなぜか」の回答は「警察の捜査が及ばなかった」「信教の自由への配慮」「反応が過激だった」「バリューがなかった」「担当外だった」「その他」。  メディアについて個人と組織を整理して捉える視点が、完全に欠落していた。  設問でTBSビデオ問題に言及しないまでも、少なくとも事前のリサーチで検証番組を見ていればメディアの構造は理解できたろうし、別の資料からでもそれを知りうるリサーチはできたはずだ。そういった作業全般が欠落していたということだろう。

存在しない「宗教の壁」

 発表の中で「宗教法人の壁」というワードが登場した。しかし本来、報道においてそのような壁は存在しない。  宗教を批判することは表現の自由や報道の自由の範疇であり、「宗教」だからという理由で特別な手心を加えなければならない理由はない。もちろん事実に反する報道や差別などは許されないが、それは相手が宗教でもそれ以外でも平等だ。批判的な報道そのものは「信教の自由」の侵害でも何でもない。  宗教団体のうち特に宗教法人は、公益法人である。社会的な責任を問われ批判の対象になるのはむしろ当然だ。むしろ宗教法人であればこそ厳しい目を向ける必要があるとすら言える。  とは言え、批判的な報道をすると、宗教団体側が「信教の自由」を盾に苛烈な抗議をしてくることが、しばしばある。今回の学生たちの発表でも、その点には触れられていた。これゆえに、記者など現場担当者には報じる意思があっても、抗議を恐れる「メディアの上の人」がストップをかける。あるいは、それを忖度して現場が萎縮する。 「宗教法人の壁」のように思えるものは、実際には「抗議を恐れる壁」であり、メディア内部の「組織の壁」だ。記者個人が「報じるべき」と考えることでも、編集部がNOと言えば掲載されない。これには、フリーランサーも無関係ではいられない。  メディアは記者個人の「自由帳」ではないのだから、当然だ。クレーマー的な取材対象について報道した際、クレーム対応によって強いられる社としてのコストも意識せざるを得ない。それは「経営者」や「管理職」の視点であり、人事評価や出世、部署間の力関係など組織内政治も関連してくる場合すらある。そこに改善の余地や課題はあるにせよ、記者個人の意見を云々することでどうなるものでもない。
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水に落ちた犬しか打てない
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