さまざまな生きものたちがいのちを謳歌する
現代人の体は、利き手の2本の指ばかり使っている。スマホを駆使することで、すべてができるようになったと勘違いしがちだ。しかし、指も腕も腰も足も、もっと使わないと身体は不調をきたして退化し、不健康になる。
指5本を使って草や稲に対峙し、体全体で道具を使いこなし、泥を歩いてバランス取り、凸凹を動いて平衡感覚と順応力を養うことで、本来の人間としての身体性を取り戻せる。五感もキャッチフルになる、例えば……。
・穏やかで緩やかで微笑ましいコミュニティ
田んぼには「マイ田んぼ」のメンバー以外にも、継続して米作りをしているメンバーが50組もいるし、地元の方もふらっと訪ねて来てくれるし、子どもたちは虫取りや泥遊びで走り回って歳が違っても仲良くなる。
除草剤や農薬を使わないので多様な生き物が命を謳歌して、鳴き声は歌や合唱のよう。田んぼで出会う人同士が笑顔で挨拶し、井戸端会議になったり、助け合ったり、支えあったり、おすそ分けをもらったり、物々交換したり、人間本来の当たり前が目の前に広がる。田んぼ作業中にふとそんな様子を見るだけで、「人間っていいな」ってほのぼのしてしまう。
・自然の循環
子どもの頃に教科書で学び、一般知識として知っている、自然の摂理や循環。しかし、それを体感としてわかっているだろうか。米作りの半年、季節が移ろう中で、樹々や草花の香り、抜けて行く風、いのちを謳歌する生き物たち、その食物連鎖、自然の脅威、自然の不思議、すべてあらゆるものの循環、それに反した現代社会の矛盾、「無」と「空」。それらを頭でなく身体全体で感じ得る。
・感謝
すべてが循環で移り変わってゆくものであると身体が認識するなら、当然の帰結として感謝の念が湧いてくる。いま自分がここに在るのは、古今東西すべての循環の連鎖のおかげだと。「感謝しろ」「感謝の気持ちを持て」などと言われずとも、自ずと感謝に結びつく。「自給」とは、「自ら糸を合わせる」と書く。己と離れてしまった体と心を自分に手繰り寄せ、循環に身を委ねる気づきへ、自ずと向かうだろう。
ここであげた、「米作りで得られたこと」は20項目になったが、人によっては得られたものはもっとあることだろう。
ユルくてもコトは回っていく。「なんとかなる」という自負
「SOSA PROJECT」が活動する里山と田んぼを上空から
「SOSA PROJECT」 では、「ああしろ、こうしろ」とはあまり言わず、ユルい。プライベートな休みに来る人たちに細かな指示出しやダメ出しなどはしたくない。俺たちはそれを当たり前に行ってきたが、参加者たちは毎度「ユルくて、びっくりする」と言ってくれる。
おのおのが自由に判断して作業できる、余白の部分が多い。「失敗するのもいいじゃないか」というスタンスだ。失敗から学ぶこともある。休憩するのも自由だし、終わる時間も決めていない。作業が終わったら帰る人もいるし、他のメンバーの作業を手伝う人もいる。それなのに、たいていみんながほどよい笑顔の関係性になる。ユルいのに、ちゃんとコトが回ってゆく。
現代の暮らしでは「お金がなければ何もできない」と思わされがちだ。だから仕事・会社にしがみつくしかない、と考える。意義を見出せない労働に人生の大半を費やし、ストレスを感じ、人生の迷子になる。生存の苦悩とは、結局は「収入=お金」。その答えは、2つだけしかない。
もっとお金を稼ぐ
or
自分でできることを増やす
お金をより稼ぐことに苦が少ない人は、前者を進めばいい。生きることすべてが、お金で対処できる。「それが苦手だ、嫌だ、辟易している」という人は、自分でできることを増やして、お金への依存を少なくして後者の道へ進めばいい。
お米を作るようになった人は、たいてい生存に対してユルんだ顔で「なんとかなる」と言う。そう言える人ほど、強くたくましく見えるものだ。なんとかなる自負がある人は、軸があり、堂々とし、おおらかでいられる。そんな人を何人も見てきた。