帰国してから記者会見、各省庁からの聞き取り、マスコミ取材などを多数受けている安田純平さん。体調は万全でないながらも、可能な限り説明をしようとしている
安田純平さんが無事に解放されて、帰国がかなってしばし経った。無事の第一報を聞いた時、目頭が熱くなった。すごく嬉しかった。
「よかった、ありがとう」
それが、俺が最初につぶやいた言葉だった。3年4か月もの間、安田さんが過酷な状況の中で孤独と戦いながら生き延びたであろうことを想像するのは、誰だって難しくないはずだ。拘束中の一時期、テレビを見られたとかお菓子をくれたとか、それだけを切り取って批判する人がこの国にいるとすれば、本当に情けない。まさかそんな想像力の乏しい人が「愛国心が重要だ」などと謳ってないだろうか(笑)。
孤独と理不尽と虐待と、命の保証も明日にすらわからない状況で過ごした恐怖に、想いを馳せることができないのだろうか。ただそのことだけをもってしても、一部のバッシングをする人の想像力のなさ、共感力のなさ、そして主体的にものを考えられない思考に悲しくなるし、憤りすら覚える。同じ国の人間が生きて帰れたことを喜べない。その屈折は、なぜどこから生まれてしまうのか想像がつく。
「迷惑をかけたのだから謝れ」などという人は、3年4か月の間、安田さんのことをどれだけ心配し、迷惑をかけられたと言うのだろうか。実際に救出に動いていたジャーナリスト仲間や外務省の方たちが「迷惑かけたんだから謝れ」なんて言うだろうか。言わない。むしろ「無事帰ってきてよかった、ありがとう」と言う。
国が発する情報だけではない、現地のナマの情報が必要
なぜ「ありがとう」なのか。安田さんに限らず、まっとうなジャーナリストは、都合が悪いことや情報を隠したり、ないことにしたりする国や権力に対して、いのちを賭けてまでナマの情報を取りに行くのだ。
国が発するだけの情報で、本当の情報が国民に届いてないとしたら、民主主義は成り立たない。判断と選択の自由がなくなるからだ。民主主義の担保とはそういうものだ。だから、現地のナマの情報を取りに行こうとしてくれただけでも「ありがとう」なのだ。
「彼は情報を得る前に拘束されて失敗したのだから、ジャーナリストとして失格だ」という理論もヘンだ。記者会見で見事なまでに経緯を話され、その現地における情報力と分析力は、絶望から帰還してすぐの人とは思えないものだった。
それだけでも価値があるし、今後もこの国どころか世界中に有意義な情報をもたらしてくれることは間違いない。そもそも、チャレンジが失敗したら人間失格なら、どんな人間も、誰でも、あなたも俺も、人間失格だ。どんなに失敗しないように準備しても、人は必ず失敗する。そのことは、誰よりあなたが知っているだろう。