新宿は「内藤」という地名になる可能性があった!? オシャレ度で青山に完敗した理由とは

青山霊園一帯は青山家、新宿御苑一帯は内藤家の領有地だった

 港区の青山も美濃郡上藩青山家の下屋敷(現在の青山霊園一帯)があった場所で、新宿には信濃高遠藩内藤家の中屋敷(現在の新宿御苑一帯)があった。  青山家、内藤家共に、徳川家が天下を取る前から仕えた“三河以来”の譜代大名であり、青山家は大膳亮(従五位下)、内藤家も伊賀守や大和守(従五位下)の官位を代々拝命するなど家格も同等だ。両家共に、江戸入府後に鷹狩りをした徳川家康から「馬に乗って駆け回れただけの土地を全部やろう」と言われ、譜代大名の中では群を抜く広大な屋敷地を拝領したという言い伝えが残るなど、将軍家の覚えがめでたいライバル関係でもあった。  しかし、地名に名を残した青山さんと、残せなかった内藤さん、なぜこれほどまでに差がついてしまったのか。  新宿が“内藤”にならなかった最大の理由は、内藤家の屋敷の隣に新たな宿場町・内藤新宿ができてしまった不運にあった。  甲州街道と青梅街道の分岐点だったことから、商人たちが宿場開設を願い出て、1699年(元禄12年)にこの地に内藤新宿が設けられた。その際に、商人たちは、幕府に5600両(現在の貨幣価値で7~11億円ほど)を上納して許しを得ている。  街道の起点である日本橋から、わずか2里(7キロ)しか離れていないのにもかかわらず、莫大な上納金を積んでまで宿場を設置したのは、岡場所(非公認の風俗街)にして儲けることが狙いだった。
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一大歓楽街に成長する中、内藤さんの存在感はどんどん薄まり……
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