――大学を中退されてからすぐに東京に来ていますね。
林:19歳から東京に出て来てお金もないしバイトばかりして、どうやったら映画監督になれるのかもわからなくて絶望していました。でも、一生に1本だけでも何とか撮ろうと思って作ったのが、デジタルリマスター版として『BOLT』と同時に公開されている『夢みるように眠りたい』でした。
(C) 映像探偵社
お金はありませんでしたが時間がたくさんあったので、図書館で本を読んでいました。また、よく浅草に行っていたんですね。浅草に行くと何故か孤独は感じませんでした。『夢みるように眠りたい』は浅草が舞台ですが、「この路地いいな」みたいな感じであらかじめ風景のことはよくわかっていたんです。1本目ですが映画を撮るのはこれで最後かもしれないと思って、好きな風景を全部入れました。
――『夢みるように眠りたい』は、モノクロ、無声映画ですが、このような作りにした理由は「他の映画とは全く違うことをやっていると印象付けたかったから」とのことでした。
林:すべてを否定しているわけではありませんが、人が作っているような映画は自分が作っても仕方がないと思うんですよね。娯楽映画ですが、他の人たちとはアプローチ、作り方が全然違うんだと思うんです。
自分は完全な素人なのですがスタッフは全員プロでした。とにかく必死で、撮影監督の長田(勇市)さんにほとんどのスタッフを紹介してもらいました。
映画はいつも「イチかバチか」ですが、この時も全く成功する気配はなかったですね。この作品が評価されて映画監督としての道を歩み始めましたが、スタッフの方々のおかげです。
――映画のみならず、テレビドラマ、そして演劇の演出まで幅広く活躍されて来ました。
林:いつでも撮る、どこでも撮る、どんな条件でも撮る。これが常に考えてきたことです。テレビだからと言って「テレビドラマ」と思って撮らない。芝居の演出もそうです。お声が掛かったらとにかく「面白い」と思って挑戦する。それを繰り返してきました。
――今では大学教授として後進を育成されてますね。
林:最初に映画作りの面白さを教えるんですね。いきなり技術面などの映画の撮り方は教えません。確かに、それを教えたら映画を撮れるようにはなります。でも、それだけでは「本物の映画」は撮れません。
まず、映画をたくさん見て入学してきた子には、「映画はこうあるべき」という固定概念を取ることを伝えます。それがあると自由に考えられなくなってかえって伸び悩んでしまうんですね。
そして、イマジネーションが大切だということも伝えます。映画は物語の可視化なんです。言い換えれば、文字を映像に置き換えるのが映画を作る作業です。それには設計図が必要なので、プロットを書いたり、起承転結などを展開する訓練をします。「どう撮るか」ということより、物語を作る面白さを一緒に作業して伝えるんです。
Photo by JUMPEI TAINAKA
シナリオが書けるようになったら次は映画として立ち上げるプロセスを教えます。カメラの使い方、録音の仕方などです。絵コンテも描かせますが、経験もないのに絵コンテのままを撮るとおかしくなるので、絵コンテは座標軸、ガイドに過ぎないものだということも言います。
4年間のカリキュラムの中でじっくり取り組んでもらいますが、最低限の技術を教えて後は自由にやってもらう。そうすると物語を作ることが面白くなってどんどんやるようになるんです。
職業にする前に「面白い」と思わないと才能が出て来ません。面白いと思うようになって制作する中で、台本制作が面白い、撮影が面白い、と自分の特性が見えて来て、進む道が見えて来るんです。
京都芸術大学では監督も女優も俳優も輩出しています。今の東北芸術工科大学もそろそろ7年になるのでやはり新しい才能が出て来ていますね。
――卒業した学生さんにはどのようなアドバイスをしているのでしょうか。
林:社会に出て映画を作るというのは生半可なことではできません。だから、まず自分の生活を守れと言っています。普通の仕事をやりなさいと。クリエイターになりたいと言って例えばCM制作などの仕事に就いてもずっと使われたままで、全く自分の作りたいものは作れません。教わるのは「プロはこうあるべき」という固定概念ばかりで。
だったら、普通の仕事をやりながら土日に自分の仲間と協力して映画を撮ったり、脚本を書いたらいいとアドバイスしています。
いわゆる下請けの制作の現場は人間関係も含めて過酷な労働を強いられます。それで壊れてしまった教え子たちをたくさん見て来ました。そうであればまずは普通の仕事をして「作りたい」という自分を守らないといけないと思っています。
――留学のご経験もありますね。
林:アメリカに行ってテレビシリーズを撮っていました。土日完全休みで最低月給が200万でしたが、現地の製作会社にはアメリカのディレクターズギルドには入らないでくれと言われました。ギルドに入ると最低でも週給200万が保証されるので……。映画に関わる人たちの生活が守られるシステムができているんですね。
それから、映画を撮って当たると豊かになるシステムがありますよね。アメリカの監督はみんな豪邸に住んでいます。国の成り立ちも事情も違うということもありますが、日本みたいに作っている人はずっと儲からないシステムだと産業自体が続かないですよね。目指す人もいなくなる。そういう状況を打破しようと30年間努力しましたがやはり日本ではなかなか難しい。
韓国はその点、国を挙げてやっています。昔よく一緒にご飯を食べたポン・ジュノもかつては苦労していましたが、今は豊かになっています。監督に分配するシステムがあるんです。
また、一つの作品が大きく当たらないということもあると思います。今までのスタイルに捉われず、最初から世界展開を視野に入れて作品をリリースするなど、フラットな形を打ち出していかないといけないのではないでしょうか。
――確かに、日本映画の文化政策や新しい形のビジネススタイルは充実しているとは言い難いですね。
林:映画を4本以上取る人がどれほどいるかということです。1本撮ります。そこで少し成功して2本撮る。そして3本目を撮る人はほとんどいません。テレビなどの他の世界に行ってしまうんですね。インディペンデントで映画を撮り続けていくということはそれほど厳しいことなんです。
もっと若手の監督が世に出られるチャンスをたくさん作るべきです。そして、当たった時にはたくさん褒めて評価して活躍できるチャンスを広げた方がいい。例えば、上田慎一郎監督の『カメラを止めるな!』は大成功でしたが、インディーズ映画が見られる機会がたくさん出て来るといいですよね。あの映画も途中から大手の配給会社や映画館が協力しました。そういう連携がどんどんできるといいと思っています。
――今後の活動についてお聞かせください。
林:撮っている時は「いつもこれが最後だ」と思っていますが、撮り終えるとなぜかまた撮りたくなるんです。今、また撮りたくなってきたところで、次回作については考えている最中ですね。
<取材・文/熊野雅恵>
くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。