――作業時の緊迫した様子が伝わってきました。
林:設計図を読んでいたので、大体の構造はわかっていました。タービン建屋の中に300メートルの松の廊下と呼ばれる長い廊下があるんです。そこを歩いて緩んだ配管のボルトを締めに行ったのは実話です。そのイメージで永瀬(正敏)さんと佐野(史郎)さんのやり取りを書きました。
ボルトを締めに行った男たちの話なのでタイトルは『BOLT』です。この映画を作ったおかげで原子力発電所には詳しくなりました。それをふまえて思うことは、事故の責任の所在も大切なことかもしれませんが、何よりも問題なのが、今、原子力発電所が止まっていないことだと思います。もちろん、事故のあった福島第一原子力発電所の放射能の流出も止まっていません。
Photo by JUMPEI TAINAKA
小さな子どもたちがたくさんいるのに、未だに福島第一原子力発電所からは放射性物質が出続け、多くの放射性物質を含んだ処理水が敷地内に蓄積されています。しかも、スペースがないことから海洋放出も検討されている。
先日は宮城県沖で9本足のタコが出て来たというニュースが流れましたが、これから先どんな被害が出て来るかはわかりません。しかも、また地震が来て事故が起こる可能性がゼロではない。そうなったらどうなるのか。
とにかく「今、稼働している原子力発電所と既に漏れている放射能を止めろ」ということです。それを脱原発エンターテイメントとして描いたのがこの作品です。
問題の風化は避けなければなりません。音楽を担当したのは福島在住の友人ですが「福島にとっては原発が題材になり続けることに意味がある」とも言われました。
――スタッフは東北芸術工科大学の学生さんたちとのことでした。
林:京都造形芸術大学(現京都芸術大学)にいた頃、学生と一緒に『弥勒 MIROKU』(‘13)という作品を撮ったのですが、その時と同じやり方で東北芸術工科大学で撮りました。各パートを細かく分けて、学生を助手ではなく、全員メインスタッフにしたんです。学生たちもとても活き活きと映画を撮りましたね。
――EPISPDE2『LIFE』の中で「どうやって生きていきます?」と問いかけられて「生きていくしかない」と答えた主人公の姿が印象的でした。
林:2012年のことでしたが、当時の教え子の実家が三陸にあって、帰省した時に現地の映像を撮ってきました。地震で行方不明になってしまった自分のおばあちゃんを探しながらカメラを回していたんですね。
Photo by JUMPEI TAINAKA
その映像に衝撃を受けて、盛岡市で行われたもりおか映画祭に車で行きました。石巻にも向かいましたが、2メートルぐらいの防波堤がガチャガチャに割れていた。大槌町にも行きましたが、ほとんど何もありませんでした。
脚本作りにあたって特別な取材はしていません。というのもあまりに悲しい光景を目の当たりにして、酷い状況であればあるほど「生きていくしかない」のではないかと感じたんです。
――スタッフとして参加した東北芸術工科大学の学生さんにとっては震災の記憶が生々しいものではなかったのでしょうか。
林:撮影時の2014年に22歳とすると震災の時には18、19歳ですので、震災が人生を直撃したという実感があったようです。ただ、感傷はあるけれども、映画は映画なんです。特に今回はフィクションということもあって、撮影時は作ることに夢中で楽しく映画作りをしていました。
一方で、スタッフ以外の学生からも津波に家を直撃された話はずいぶん聞きました。現在の大学1年生でも当時は小学生です。今では平気な顔してますけど、聞けばやはり色々と思い出はあるんです。何も知らずにこの映画を見て吐きそうになってしまった学生がいました。今、2年生で19歳ですが、フィクションであるものの、映画に描かれている心の動きを感じて当時のことがリアルに蘇ったようです。