思っていることを「言葉」に変換するのはかなり高度な行為
心の水路を枯れさせず氾濫させず、適切に循環させる環境整備こそが大切なことです。自死の問題を受けて、そのことを単純に個人や周囲のせいにせず、社会の構造の問題、場の問題として受け止めて、必ず次の社会創造につなげていく必要があります。
こうしたことの背景として、芸能人や有名人の方は、SNSやインターネット世界で受けるバッシングが辛辣で激しい、ということもあるだろうと思います。女子プロレスラーの木村花さんが亡くなったこともそうしたことと関係があり、現代社会の全体像を真剣に受け取め、いま生きているものたちの責任としても、よりよき未来へとつなげていく必要があるだろうと思います。
本来「言葉」でのやり取りは、かなり高度なものです。形にならない感情や思いに適切な言葉をあてはめる「言語化」を含め、「言葉」の世界はかなり抽象度が高い行為です。
自分も本や文章を書く立場になって痛感したことですが、自分が本当に思っていることを「言葉」に変換するということは、極めて高度でかなりの訓練を必要とする行為です。
実際に著作を書いていても、常に言い足りないし、常に言い過ぎる、という思いの中で、何度も何度も自問し推敲し、書き直し続けました。一度でうまく言葉に変換できることもあれば、何度も何度も推敲する場合もあります。
わたしたちは、こどものとき「言葉」をなんとなく覚え、「言葉」でのやり取りをなんとなく学習します。そのとき、「怒り」「支配」「欲望」「力」などを推進力として「言葉」でやり取りをしている大人や社会から言語を学習すると、言葉のやり取りがそうしたものだ、と誤って学習してしまうのです。
自分の生命の深部から生れてくる言葉をこそ、大切にしたい
「怒り」や「復讐」のようなものをコミュニケーションで場を支配するために使っている人(多くは無自覚です)は意外に多く、「言葉を扱う」という行為が、あまりにも安易に行われています。そうした時代に強い危機感を感じています。
たとえばヘイトスピーチのように、相手を傷つける言葉で場を支配するやり取りも、時代の危険な徴候だと思います。芸能人含めて、言葉の矢面に立っている人たちが受ける言葉の暴力には、想像を絶するものがあるのではないかと思います。
だからこそ、今からは言葉でのやり取りを全員が再学習する機会としても、「対話」を真剣に考える時代になると思うのです。
悪意に満ちた言葉をコピーして発し、そうした行為に悪気も悪意もなく言葉をやり取りしている時代を、自分は次の世代に残したくない。それぞれ個人が、ちゃんと自分が吟味した言葉を責任もって絞り出す時代へ向かうためにも。
本当に自分が考えていることを、ちゃんと言葉にすることは難しいものです。そもそも「自分は何を考えているのか」を知ることが第一歩になりますが、そもそも、そうした前提こそが疎かにされやすいものです。「中動態」のように、外部とは関係なく自分の生命の深部から生れてくる言葉をこそ、大切にしたいのです。