村上信夫氏
前述の通り、事前のリサーチ不足や設問の不備は、学生たちの知識不足よりも、研究の方法論を指導できなかった村上教授の問題だろう。
今回のゼミ発表は院生等ではなく学部の3年生が中心。まだまだ研究のイロハを学んでいる最中の立場だ。ましてや宗教を専門とするゼミではない。宗教についての知識不足を責めるのは酷だろう。
こうした場面では、研究の過程そのものが、知識や問題意識を身につけていくための教育だ。そこで学生にヒントや方法論を示すのが教育者の役割。フィールド調査前のリサーチも、フィールド調査も、人前での研究発表も、実績のあるジャーナリストを招くトークセッションも、それによって学生たちが何かを学べるような形に指導者が努力すべきだった。その努力の形跡が見られない。
メディアをテーマとしたゼミなのだから、学生たちには、メディアについてはもう少し知識や洞察力があっていいのではないかとは感じる。しかしそれもまた、日頃の教授の指導の結果なのだろう。
近年、オウム事件に関連するドキュメンタリー映像を制作するなど、大学生がオウム事件やカルト問題に関心を持って研究や創作活動を行うケースを目にする。今年3月16日に開催された「地下鉄サリン事件から24年の集い」でも、学生の姿が目立った。
これは素晴らしいことだと思う。たとえばオウム真理教一派「ひかりの輪」の上祐史浩代表などにインタビューし安易にその主張を垂れ流すなどの実害のある行動でない限り、知識不足でも論考が拙くても、興味を持ったなら臆することなく挑戦すべきだ。それを支援すべき立場にあるオトナとして、学生の知識不足を責めたくない。
30年以上前からの膨大な情報が蓄積されているオウム問題は、事件について報道などで見知っているオトナすら、ゼロから全体像を理解することは容易ではない。知識ありきで評価してしまっては、学生は何もできなくなってしまう。それでは、オウム事件の教訓を後に引き継いでいくことができない。
だからこそ、知識を得るための方法やヒントを、オウム事件を知る世代である指導者側が示す必要がある。今回、村上教授はゼミ生に対して、それをできていなかった。
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「地下鉄サリン事件から24年の集い」で語られた警察とメディアの問題〉で書いたとおり、サリン被害者や家族にとって「事件の風化」などというものはない。一方で、記憶や歴史として捉える第三者にとっては、抗わなければ「風化」は起こるし、すでに起こっている。
風化させるのは若者ではない。若者に学ぶ方法を示すことなく適当に片付けさせてしまうオトナたちだ。地下鉄サリン事件の実行犯だった林泰男・元死刑囚(昨年7月に執行)の判決文の一節に、こんな言葉がある。
「およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える」
大学での勉強は、殺人とは違う。師を誤っても後から埋め合わせはいくらでもできる。村上ゼミの学生たちには、いまからでもいいから参考情報に触れ、自分たちの研究に何が足りなかったのかを学んでほしい。オウム事件に限らず、教育や学問のあるべき姿を知ることにもつながるはずだ。
適当に片付けてしまうオトナのもとで適当なまま終わらせないでほしい。
<取材・文・写真/藤倉善郎(
やや日刊カルト新聞総裁)・Twitter ID:
@daily_cult3>
ふじくらよしろう●1974年、東京生まれ。北海道大学文学部中退。在学中から「北海道大学新聞会」で自己啓発セミナーを取材し、中退後、東京でフリーライターとしてカルト問題のほか、チベット問題やチェルノブイリ・福島第一両原発事故の現場を取材。ライター活動と並行して2009年からニュースサイト「やや日刊カルト新聞」(記者9名)を開設し、主筆として活動。著書に『
「カルト宗教」取材したらこうだった』(宝島社新書)