写真/時事通信社
平成幕開けと同時に完成し、崩壊を始めた戦後日本社会の理想
平成の時代の幕開けとともに、経済を基軸に据えた戦後日本社会の理想が完成を見た。しかしすぐさま崩壊の途を歩みはじめ、その足取りは行き先も見えず、昭和の時代の無理難題が噴出するなか平成後期に向かうにつれて、ただただ早くなっている。
30年という限られた時間でありながら、政治、法律、経済、社会などに関する各種の客観的な指標に注目するならまるでジェットコースターのような変化を遂げたことになる。
それに対して、人の認識や規範の形成、変化には随分と時間がかかる。そのため平成の変化は正しく認識されなかったし、現在もされていないと考えるほうが自然なはずだ。
事実、平成末の現在においても人口のおよそ7割は昭和かそれ以前の生まれで、昭和生まれの世代がマジョリティということになる。当然彼らが形成してきた諸制度や諸習慣、規範がいまだに支配的地位に残っている。それはまさに昭和の面影というほかないが、ときにそれらが社会の実態とかけ離れたものになっているとしても、である。
「平成的なもの」の見え方、感じ方も大きく異なるはずだ。マイノリティである昭和末から平成後期に物心ついた世代にとって経済成長は、まったくもって所与のものではないはずだ。関連して賃金水準や正規雇用、年功序列型賃金、終身雇用といった経済と密接に結びついた社会の諸習慣も同様だ。
非正規雇用率は2018年に37.9%、15-24歳の50.25%を筆頭に現役世代の多くにおいて、30%前後で推移し、常態化している(総務省『労働力調査(詳細集計)平成30年(2018年)平均(速報)』)。正規職においてさえ年俸制や査定方法が不明瞭な日本型業績給賃上げや昇給も自明の存在ではなくなっているが、それが所与の風景だ。
歴史的知識や理論に基づいて反発や理不尽さを感じることはあるかもしれないし、彼らの経験上は「そういうものだ」と認識しているはずだ。存在しないものは存在しないので、彼らが体感する昭和は主に諸課題で、超克すべき対象で時代遅れに思えてならないはずだ。
だが平成冒頭に既に働いていた世代や働くことを意識していた世代からすれば、それらは「失われたもの」に見える。そして喪失感ゆえに、慣れ親しんだ昭和の日本型システムに郷愁を抱いたとしてもなんら違和はない。彼らにとっては昭和的なものは超克ではなく、取り戻すべき対象なのかもしれない。