日本政治はどうか。ロッキード事件や1989年のリクルート事件などいわゆる政治とカネを巡る数多の問題をきっかけに、世論にも、そして自民党内にも強い危機感が共有され、政治改革の議論が本格化した。結論として、衆議院における小選挙区比例代表並立制導入(初めての実施は1996年の第41回衆議院議員総選挙)、政治献金の制限と政党助成制度等を核とした選挙制度改革が導入された。
ただし、これらの移行は決してスムーズに進んだわけではなかった。自民党からは小沢一郎や石破茂といった改革派や若手らの離党が相次ぎ、さきがけや新生党という今はなくなった小政党が複数誕生し、議席獲得に成功した。のちに彼らは自民党に復党したり、民主党や民進党に連なる野党で長く存在感を発揮することにもなる。
しばしばジャーナリストの田原総一朗が言及するように、政治改革の行く末について、現時点で最後の官僚出身の総理大臣となった宮沢喜一が「総理と語る」で返答に窮した姿が大きく報じられたこともあって、1993年の第40回衆議院議員総選挙において自民党の獲得議席数は223に留まり単独過半数に届かなかった。
この「嘘つき解散」によって、宮澤総理は自らの発言の整合性の不一致の結果責任を負うことになった。現代ではすっかり見られなくなった、ある意味では潔さを感じさせる政治家の姿だった。
選挙の結果、本来少数政党である日本新党と新党さきがけが政権構想の主導権を握ることになり、非自民連立政権が登場することになる。1955年から続いた自民党と少数政党が対峙する55年体制の終焉である。
新たな船出に漕ぎ出した非自民連立政権だが政治基盤が極めて脆弱だったこともあって、細川内閣、羽田内閣、村山内閣はいずれも短命政権で幕を下ろすことになった。村山内閣は事実上初の本格的な社会党政権の誕生であった。
従来の社会党の方針を覆すかたちで、自衛隊の合憲性を認め、日米安保の堅持を主張した。日本政府の政治的主張における整合性と正統性は保たれたが、その後の社会党の凋落を加速させたという指摘もある。
村山内閣退陣の間接的な引き金となったのは1995年の初めての大規模都市型災害となった阪神淡路大震災の復旧復興に対する村山内閣の遅れに対する世論の否定的な評価であった。
もっともその後の災害も踏まえて制度的にも遥かに整備、改善されていたはずの2011年の東日本大震災後の政治状況と当時の民主党政権に対する批判もあわせて考える必要があるだろう。加えて、1995年にはオウム真理教事件や函館ハイジャック事件など、政治的判断も迫られる難しい事件も相次いだ。また戦後50年のこの年、太平洋戦争中の日本によるアジア諸国の侵略や植民地支配に対する謝罪が「村山談話」として公表され、現在も踏襲されている。