そして自民党連立政権への政権交代の直接的なきっかけとなったのは、第41回衆議院議員総選挙であった。奇しくもはじめて、小選挙区比例代表並立制が適用された総選挙だった。橋本龍太郎率いる自民党が239議席を獲得し再び政権与党の座を取り戻した。
政策通としても知られた橋本が総選挙以前から強く主張したのが行財政改革だった。内閣法や国家行政組織法をみると意図されていたのは官邸機能と内閣機能の強化であった。少々長くなるが、以下に、いまも官邸ホームページに掲載される橋本改革の目指そうとした姿を参照してみたい。
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橋本内閣「変革と創造」~6つの改革
政府は、世界の潮流を先取りする経済社会システムを創り上げるため、次の6つの改革を一体的に推進しています。
●行政改革
規制緩和、地方や民間への業務・権限の委譲を行い、行政をスリム化し、真に国家、国民に必要な行政機能を見極め、国民が求めるサービスを最小の費用で提供できる行政、経済社会の変化に柔軟に対応できる行政を創り上げます。
●財政構造改革
2003年度(平成15年度)までに、国及び地方の財政赤字対GDP比を3%以下とし、公的債務残高の対GDP比が上昇しない財政体質を実現すること等を目標に、歳出全般について聖域なく見直しを行うこととしています。
●社会保障構造改革
急速な少子高齢化の進展に伴う国民の需要の変化に適切に応えるとともに、医療、年金、福祉等を通じて給付と負担の均衡がとれ、かつ、経済活動と両立しうる、サービスの選択・民間活力の発揮といった考え方に立った、効率的で安定した社会保障制度の確立を図ります。
●経済構造改革
既存産業の高付加価値化を含めた新規産業の創出に資するよう、資金、人材、技術等の面で環境整備を行います。また、抜本的な規制緩和等によって、産業活動の基盤的要素である物流、エネルギー、情報通信、金融についての高コスト構造の是正を図るほか、企業や労働をめぐる諸制度の改革や社会資本の効率性の向上などにより、我が国の事業環境を国際的に魅力あるものとする改革に取り組みます。
●金融システム改革
2001年までに、我が国の金融市場がニューヨーク、ロンドン並みの国際市場となって再生することを目指し、金融行政の転換、市場自体の構造改革を図ります。 金融市場については、(1)Free(市場原理が働く自由な市場に)、(2)Fair(透明で信頼できる市場に)、(3)Global(国際的で時代を先取りする市場に)の三原則により改革を進めます。
●教育改革
我が国の人材を育成するという視点と同時に、子どもの個性を尊重しつつ、正義感や思いやりなど豊かな人間性や創造性、国際性をはぐくむという視点に立って、教育改革を進めます。
(出典:
首相官邸ホームページ「橋本内閣「変革と創造」~6つの改革」より)
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これらの「精神」はまさに第二臨調、中曽根改革の流れを継承し、そしてのちの小泉内閣、安倍内閣で発展し、さらに本格活用されていく諸機能といえる。
「政治の言葉」という意味でいっそう興味深いのは、橋本行革を推進した行政改革会議の最終報告だろう。「行政改革の理念と目標」として、以下の3点の理念を掲げている。
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1 従来日本の国民が達成した成果を踏まえつつ、より自由かつ公正な社会の形成を目指して「この国のかたち」の再構築を図る。
2 「この国のかたち」の再構築を図るため、まず何よりも、肥大化し硬直化した政府組織を改革し、重要な国家機能を有効に遂行するにふさわしく、簡素・効率的・透明な政府を実現する。
3 そのような政府を基盤として、自由かつ公正な国際社会の形成・展開を目指して、国際社会の一員としての主体的な役割を積極的に果たす。
(出典:
「行政改革会議最終報告」より)
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これらの理念にはいっそうの詳細な解説が加えられている。
法案や関連の進捗は現在主流のインターフェイスや階層の考え方とは適合的とはいえず、若干古びた印象は免れないものの、かなり詳細なデータが1995年に流行語大賞トップテンに位置づけられた「インターネット」を積極的に活用しながら情報公開されていることは印象的だ。
周知の通り、現在では多くの行政保有情報がオンラインで公開されている。その基盤となっているのがやはり橋本内閣の最後のひとつの仕事でもある行政情報公開法である。その後の拡充を経て、反復継続的に開示がなされた情報についても原則としてWebサイトで公開されることになったという点では原点は橋本行革にあるといえる。透明性という意味では当時厚生大臣だった菅直人がプロジェクト・チームを作って精力的に取り組んだことで、厚生省の不作為を明らかにしたことは特筆しておくべきだろう。
その後、中央省庁等改革基本法によって、2001年から現在の内閣府、財務省、総務省、法務省、外務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省、防衛省(当時は防衛庁)の一府一二省庁制へと移行される。
結果、現在に至る政治行政的骨格が完成した。のち、内閣人事局や国家戦略特区法に基づく国家戦略特区制度が取り入れられながら、橋本行革の路線は発展的に堅持されていると考えられる。換言すれば、橋本内閣における統治機構改革の構想力と、実際に1998年の中央省庁等改革基本法に結実させた政治行政的手法はさらに検討される余地を残しているようにも思われる 。
その橋本内閣も相次ぐ金融機関の破綻やバブルの名残である住専処理に窮し、直接的には1998年7月の第18回参議院議員通常選挙の敗北の責任を取る形で総辞職することになった。