社会学者高原基彰は「『自由』と『安定』のジレンマ」という(高原基彰『現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ』NHK出版、2009年)。高原は戦後日本社会の主流派を、経済を中心とした生活の「安定」という「理念」に見出す。
「安定」の理念はバブル崩壊をきっかけに揺らいだものの消え去ったわけではなく、それに代わる「自由」の理念は日本ではあくまで「安定」を基盤にしたアンチテーゼの存在であったがゆえに確固としたかたちをもって台頭することはなく、様々な被害者意識に基づく「安定」と「自由」の極端なかたちが噴出し、着地点を見いだせずにいるというのが高原の見立てであった。
高原の議論は2000年代末にまさにゼロ年代を振り返るかたちで展開されたものだったが、平成末においてさえ我々は思想においても、現実政治においても、未だにこの自由と安定のジレンマの着地点を見いだせずにいる。それどころかますます混迷を深めている。
社会学者アンソニー・ギデンズは著書『左派右派を超えて』のなかで90年代のイギリスと世界の状況を念頭に置きながら、福祉国家(安定)の護持(保守)に主たる関心を向ける革新(左派)と、従来市場に委ねるべきとされていなかった家族、生存、尊厳といった領域までラディカルなまでに市場に委ねようとする保守(右派)が対峙し機能不全を起こし、構想と方法の不在も重なって、実在する社会問題解決が滞っていると述べている(アンソニー・ギデンズ、松尾精文、立松隆介訳『左派右派を超えて──ラディカルな政治の未来像』、而立書房、2002年)。抽象的には、30年遅れで現代日本社会の状況を重なって見える。
このような認識のもと、1990年代を乱暴に総括するなら、政治、経済、社会の各所において、変化の契機が埋め込まれた時期だった。2010年代以後に結実する政治、経済、社会の外形的改革の契機が各所で用意されていた。
国外に目を向ければ、1989年に東西ドイツを隔てたベルリンの壁が崩壊し、冷戦終結の足音が聞こえ始めてきた。1991年には旧ソ連が解体され、長く続いた冷戦構造が事実上終焉を迎えた。
フランシス・フクヤマにいわせれば「歴史の終焉」にも思えたが、自由主義か、社会主義かという二項対立の図式が役に立たなくなったことで、世界と安全保障上の構図はいっそう複雑性を増した。覆い隠されたてきた地域の諸課題が表出し、国家が向き合うべき相手が国家にとどまらず、非国家主体や超国家主体、NGO、NPO等にまで広がった。
91年の湾岸戦争では、日本も自衛隊の海外派遣や国際貢献のあり方が大きく揺さぶられることになった。「too little, too late」という国際社会の日本評は長く、日本政府のなかでトラウマ化し、2001年の小泉内閣のもとで生じた9.11米同時多発テロ事件後の特措法を含めた「迅速な対応」における教訓とされた。
1993年のマーストリヒト条約発行に伴うEUの誕生や、EUの通貨統合によるユーロの誕生はいずれも90年代の出来事だった(紙幣発行は2002年)。
少し時代を遡るが、79年のスリーマイル島原子力発電所事故や86年のチェルノブイリ原子力発電所を経て、環境問題とエネルギー問題を同時に解決する「夢のエネルギー」だった原子力発電に対する懐疑も深まっていく。これらは主に欧州において徐々に政治主題化するとともに、現実政治においても各所で政治主体としての存在感を増していくことになった。