家族というもっとも身近なはずの高齢者でさえ、いかんせん交流が薄くて謎に満ちている。そんな情報量で人を心から敬ったり嫌ったりするのはちょっと難しい。
たとえば、初対面の人に「今日が60歳の誕生日なんです」と言われたら、「還暦ですね。おめでとうございます」というお祝いの言葉は出てきても、「これまでの人生、お疲れ様でした」みたいな敬いを含んだ返事はしにくいし、当然ながら嫌悪を浮かべて「60年ものこのこ生きてやがって」なんて言えるわけがない。
相手のことをよく知らないままに嫌悪するのは偏見でしかない。そして、同じ状況で敬いの感情を抱くとしたら、それも偏見でしかない。とにかく、相手をよく知って、老人という属性は加味しても最終判断を下す材料にはしないで向き合わないと、相手にとって失礼だと思う。
だから、筆者はほとんどの“敬老ワード”のルーツである「敬老の日」が嫌いだ。
敬老の日は、‘66年の「国民の祝日に関する法律」の改正で制定された。さらに辿ると兵庫県多可郡野間谷村(当時)が村の高齢者をねぎらうイベントとして戦後に始めた「敬老会」に行き当たる。これが全国に広がって国民の祝日に発展した。
‘66年といえば、東京五輪から2年後、日本万国博覧会(大阪万博)の2年前、国内初の大規模ニュータウンである千里ニュータウンの入居が始まって数年しか経っていない。まさに高度経済成長の時期であり、都市への人口集中が加速している時期である。
古き良き時代の絆が失われていく過渡期には意味のある祝日だったと思う。しかし、これだけ世代間の溝ができてしまった現在においては、相手のことをよく知らないまま、形式的に敬う前提で向き合わせることはいささか乱暴に感じる。
それなら、「世代対話の日」や「老話の日」みたいな名称にアップデートして、まずは互いに理解を深めるところから始めたほうがいいのではないか?
節分の日に豆を撒いたり、母の日にカーネーションを贈ったりするみたいに、世代対話の日には膝をつき合わせて会話するのを約束事にする。そして、普段は遠慮して聞けないようなことを語り合う。そうしたほうが互いを尊重できるし、興味も持てる気がする。少なくともネット上に溢れる世代間ヘイトや、遠慮や行き違いによる一族間の経済・心理的ロスを抑える効果も強まるだろう。より意義のある日になるはずだ。
一説には敬老の日の市場効果は母の日の半分程度だという。ならば地味な祝日のままで放っておくより、とにかくイベント化したほうが、経済効果も出るのではないだろうか?