まず「怒る」ですが、これは他人にもできますが、自分一人もできます。
あなたは自分で自分を怒ることができるでしょう。大声を出したり、声を荒々しくしたり、そういう「怒る」は自分自身に対してはする分には誰も文句は言いません。また、「怒る」という感情の表現方法として、泣く、叫ぶなども自分に向けている場合は問題ありません。
しかし「叱る」には、必ず相手が必要です。
相手を必要とする行為である「叱る」には、その分、他人に対する責任をしっかりと認識しておこなう必要があります。
何が言いたいかというと、「叱る」ときには、「怒る」ときよりもしっかり考えておこないましょうというある意味、当たり前のことです。
元プロテニスプレーヤーの松岡修造さんは、日めくりカレンダー『
まいにち、修造!』(PHP研究所)のなかで、「叱る」のなかには「期待」があるというメッセージを掲げ、「怒る」とは自分の感情を相手にぶつけること、「叱る」とは相手のことを思い、注意することだと述べています。
これには私も同意見です。
怒るときに相手を”承認”すると、それは叱るになると私は考えます。
物事のどの程度までを許容し、どの程度以上を許容しないかとか、物事の優先順位のつけ方や判断基準を”価値観”と言います。その価値観は人それぞれ異なります。そして、どの程度を超えたら怒るかの価値観は人それぞれで異なるのです。
自分の価値観に沿って行動し、この一線を越えたら怒る。この一線を周囲の人が越えないように「見える化」しておくことが有効なこともあります。
しかし、忘れてはならないのは、その一線もしょせん個人の価値観であり、他人が本当に納得しているとは限らないということです。
そのためにも、お互いの「怒る基準や許容範囲=価値観」を普段からよく話し合っておくことが大切です。その際は、自分の価値観を大切にするだけでなく、相手(他人)の価値観も尊重するのは言うまでもありません。
このとき、忘れてはならないのは、「正義は人の数だけある」ということです。
つまり何を正しいと判断するか、どこまでを譲れるとするかなどの価値観は人それぞれで、本来変えられないものなのです。
大きいスケールで言えば、宗教や文化圏が異なれば何が正しいかは異なります。身近な例で言っても、会社が異なれば文化が異なり、正しいの基準は異なります。立場が異なればこのような価値観(正義)は、立場の数だけあるのです。