「怒り方」を学んだ上司ほどメンタル不調者を続出している事実<産業医・武神健之>

「怒る」は自分本位、「叱る」には相手がいる

 まず「怒る」ですが、これは他人にもできますが、自分一人もできます。  あなたは自分で自分を怒ることができるでしょう。大声を出したり、声を荒々しくしたり、そういう「怒る」は自分自身に対してはする分には誰も文句は言いません。また、「怒る」という感情の表現方法として、泣く、叫ぶなども自分に向けている場合は問題ありません。  しかし「叱る」には、必ず相手が必要です。  相手を必要とする行為である「叱る」には、その分、他人に対する責任をしっかりと認識しておこなう必要があります。  何が言いたいかというと、「叱る」ときには、「怒る」ときよりもしっかり考えておこないましょうというある意味、当たり前のことです。  元プロテニスプレーヤーの松岡修造さんは、日めくりカレンダー『まいにち、修造!』(PHP研究所)のなかで、「叱る」のなかには「期待」があるというメッセージを掲げ、「怒る」とは自分の感情を相手にぶつけること、「叱る」とは相手のことを思い、注意することだと述べています。  これには私も同意見です。  怒るときに相手を”承認”すると、それは叱るになると私は考えます。  物事のどの程度までを許容し、どの程度以上を許容しないかとか、物事の優先順位のつけ方や判断基準を”価値観”と言います。その価値観は人それぞれ異なります。そして、どの程度を超えたら怒るかの価値観は人それぞれで異なるのです。  自分の価値観に沿って行動し、この一線を越えたら怒る。この一線を周囲の人が越えないように「見える化」しておくことが有効なこともあります。  しかし、忘れてはならないのは、その一線もしょせん個人の価値観であり、他人が本当に納得しているとは限らないということです。  そのためにも、お互いの「怒る基準や許容範囲=価値観」を普段からよく話し合っておくことが大切です。その際は、自分の価値観を大切にするだけでなく、相手(他人)の価値観も尊重するのは言うまでもありません。  このとき、忘れてはならないのは、「正義は人の数だけある」ということです。  つまり何を正しいと判断するか、どこまでを譲れるとするかなどの価値観は人それぞれで、本来変えられないものなのです。  大きいスケールで言えば、宗教や文化圏が異なれば何が正しいかは異なります。身近な例で言っても、会社が異なれば文化が異なり、正しいの基準は異なります。立場が異なればこのような価値観(正義)は、立場の数だけあるのです。
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「怒っていいとき」の条件とは?
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