「成長の終わり」はやってくるのか? アメリカで話題の「米国の成長の盛衰」を読んでみた
「当たり前」の快適さがスポイルする人類という種
<人間の寿命が延びたといっても、その人生が困難なものであり、喜びは少なく、これほど苦痛に満ちたもので、死を救いとして歓迎せざるをえないとすれば、いったいどんな意味があるのだろうか。>(『幻想の未来/文化への不満』 著・フロイト 訳・中山元 P176)もしもゴードンの見立て通り、経済が下降の一途をたどるのであれば、それは新世紀の“大発見”が誕生しないからではなく、もはや技術革新それ自体に嫌気がさしているからなのかもしれない。 たとえばスマートウォッチの普及率は当初の想定を遥かに下回っているという。便利かどうかはともかく、もう要らないと感じているのではないだろうか。アーティストのジョシュ・クライン(1979年生まれ)の作品を見れば、そうした時代の気分がよく理解できるだろう。 ただし、拒否反応は表現できても、それで技術による支配、管理の強化に歯止めをかけられるわけではない。経済活動が鈍化したところで待ち受けているのは、新たなる茫漠たる荒野なのである。 本書はタイトルの通り、アメリカ経済の行く末を案じたものである。だが、指摘される多くの問題は現在の日本にも共通している。明治以降、私たちの暮らしぶりは、見事に近代化された。その恩恵にもあずかってきた。だがそれも終焉を迎え、過去の果実には今日の困難という種子が隠れていたことを思い知る。 それでも、経済成長を目指さなければならないのだろうか。10万年の歴史の中で、たった200年ほどの“奇跡”を前提とした生き方をしなければならないのだろうか。
<人生の問題の解決策を見つけたと思い、「さあ、これで楽になったぞ」とつぶやきたくなったとしよう。そのとき、それがまちがいであると証明するには、「解決策」が見つかっていなかった時代があったことを考えればいい。その時代にだって生きることができたはずであり、その時代のことを考えれば、発見した解決策など偶然にすぎないと思えるのだ。>(『反哲学的断章―――文化と価値』 著・ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 訳・丘沢静也 P30)確かに、数字上の未来は明るくない。それは避けられない。だが、一方で、その暗さの中にこそ、ヒントがあるとは言えないだろうか。「成長が終わること」を解き明かした本書を裏から読むと、“ふつうの経済活動とは何だろう?”と考えさせられるからだ。<文/石黒隆之>
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