そして、山本海苔店をこれらと並ぶ、海苔の御三家の老舗へと大きく押し上げたのが、初代に養子として迎えられた、2代目の山本德治郎でした。なお、その後も山本海苔店の当主は代々「山本德治郎」を名乗っており、現在の社長は6代目の山本德治郎です。(こちらはただ襲名しているわけではなく、戸籍や名義も全て変更しているそうです。)
「お客様の最も必要とされる商品を最も廉価で販売せよ」を販売面の方針とした2代目は、従来ただ「浅草海苔」として画一的に仕入れ、販売されていた海苔を細かく8種類に分けて扱う等の工夫を行い、現在の同社にも繋がる店頭販売を確立しました。
また、2代目の功績として特に有名なものが、現在でもお馴染みの「味附海苔」を開発、明治天皇に献納し宮内省(宮内庁)御用達を獲得したことです。幕末江戸三大道場の一つ、神田お玉が池の
千葉周作の道場に通って剣術を嗜んでいた2代目は、そこでかの「幕末の三舟」
山岡鉄舟と知己を得ていました。
幕末を代表する剣客の一人であり、禅や書の達人でもあった鉄舟は、西郷隆盛と勝海舟の会談を仲介して、
江戸城の無血開城の実現に貢献したエピソードが特に有名ですね。西郷隆盛からも「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」とその人間性も含めて賞賛された幕末の偉人です。
またとないチャンスを見事に活かした日本初の「味附海苔」
その鉄舟から「この味、世に並ぶ物なし」と
高い評価を得ていた山本海苔店と2代目にチャンスが訪れたのは、明治二年(1869年)の明治天皇の京都行幸の際、皇太后に持っていくための東京土産の相談を受けた時でした。このせっかくの機会に、単なる焼き海苔ではなく何か工夫を施した物をということで、考案・開発されたのが、焼き海苔に醤油やみりんで味を付けた「味附海苔」だったのです。
かくして山岡鉄舟を介して明治天皇のもとに届けられ、京都にも献納された味附海苔は、その後、昭和33年(1958年)まで制度の続いた、宮内省・宮内庁の「御用達」となり、山本海苔店のブランド獲得に大きく貢献しました。味を付けた海苔自体は、それまでに大森界隈でも試されていたようですが、御用達になったところを見ると、従来のものよりも完成度が高かったのでしょう。
ちなみに、その後に西郷たっての希望で、明治天皇の侍従となった山岡鉄舟は、明治7年(1874年)に旧水戸藩下屋敷で、
明治天皇・皇后両陛下に「木村屋」のアンパンも献上して、喜ばれています。鉄舟は剛柔併せ持った魅力的な人物だったことが伺えますね。