日本青年協議会や日本会議について通史的に解説する人たちは(と言っても、筆者以外にそんな人物はあまりいないが)この問いに、「生長の家創始者・谷口雅春への個人的帰依」という答えを用意する。谷口雅春への帰依が彼らの運動の原動力なのだというのだ。
しかし冷静に考えてもらいたい。谷口雅春が亡くなったのは1985年。もう30年以上もの昔の話だ。さらに谷口雅春は1978年に完成した「生長の家長崎総本山」に居を移し、半ば隠遁生活に入った。それと同時に教団の実権は谷口雅春の女婿であり後に生長の家二代目総裁となる谷口清超に移った。彼らの運動のかなり早い段階で、谷口雅春は彼らの前から姿を消している。いかに谷口雅春に宗教的カリスマがあったとしても、自分たちの前から姿を消した人物を数十年の長きにわたり、「運動への情熱の淵源」として、仰ぎ見ることは出来ぬだろう。
確かに、谷口雅春は大量の著作を残した。そのため、その著作をバイブルとし読み続けることはできるかもしれない。だが、テキストはテキストでしかない。同志の間で解釈の齟齬も生じるであろう。テキストさえあれば皆が足並みを揃えられるというのは、幻想でしかない。それはマルクスの著作の解釈で内ゲバを繰り返してきたマルキストたちの歴史が雄弁に物語っている。現に今、「生長の家」教団は、谷口雅春の著作の解釈をめぐって、四分五裂しているではないか。
やはり、谷口雅春の存在では全てを解説できないのだ。
誰かいるはずである。
谷口雅春が彼らの前から去った後も、運動に参画する多数の人々の情熱を維持し続け、運動に従事する人々の胸を熱くし続ける、谷口雅春に匹敵するようなカリスマを持った人物が絶対いるはずだ。
これまでこの連載では椛島有三を何度も取り上げてきた。椛島有三が「運動に参画する多数の人々の情熱を維持し続け、運動に従事する人々の胸を熱くし続ける、谷口雅春に匹敵するようなカリスマを持った人物」なのだろうか?
だが椛島有三はあくまでも日本青年協議会の会長だ。日本青年協議会は日本会議を実質的に運営する大きな組織ではあるが、前掲した彼らの運動全体を包括して指導する立場にはない。しかも椛島有三の人柄は能吏としての実直さが特徴だ。椛島有三を知る人は「村役場の役人」という言葉で彼を評する。
同様の理由で伊藤哲夫も候補たりえない。伊藤は優秀ではある。あの界隈には珍しく、他人のテキストを批評的に読み込む能力も持っている。しかし彼が代表する「日本政策研究センター」が自らを「シンクタンク」と称しているように、伊藤の能力は、政策立案や批評活動に特化している。彼は「論」の人であって「運動」の人ではない。
では、
連載第22回で登場した「学ぶ会」代表の中島省治はどうか。彼は元・日本教文社社長。「生長の家」教団の出版会社の社長を務めた人物だ。彼らの運動がスタートした70年代にはすでに教団内で「大人」としての立場にあった。中島がこの界隈に参入したのは「学ぶ会」創立の2002年(平成14年)前後のことで、ごく最近のことでしかない。となれば、彼もその候補から外れるだろう。
前掲の図で示した彼らの運動を構成する3つのセクターの頭目たち――椛島有三 伊藤哲夫 中島省治――はこのように「谷口雅春に匹敵するようなカリスマを持つ人物」としての適性に欠けるのだ。
彼ら以外に、誰かいる。
でなければ、有機的ともいうべき彼らの綿密な連携と、長年にわたって情熱を維持しえてきた彼らのモチベーションの淵源が説明つかないではないか。