どんな人にも、必ず誕生日があります。1年に1回、必ず訪れる日です。誕生日は「おめでとう」と、周りからお祝いの言葉をかけてくれる日でもありますが、同時に「自分が生まれたことを、周囲に感謝する日」でもあると思います。
メッセージを受け取る受動的な一日としてだけではなく、自分から周囲に感謝を伝える能動的な一日としても。そうした受動的で能動的な一日が、どんな人にも必ず設定されているのだろうと思います。
人間が誕生してくる出産のプロセスも、母体から生れて出て来る受け身のプロセスでもありますが、同時に、いのちが生まれようとして強い意志で外界に生まれ出してくる能動的なプロセスでもあると、自分は感じているからです。
出産の現場に立ち合ったことがあります。それは驚くべき体験でもありました。自分が思い出せない人生の始まりのことは、脳が思い出せなくても、身体の細胞のどこかが脳とは別のメカニズムで記憶しているのかもしれません。
出産の現場で自分の心や体が共鳴した時に、ああ、人は誰もがこういう命がけのプロセスを経ているのだと感じざるを得ませんでした。出産のとき、新しい「いのち」は、明らかに自分の意志で生まれようともがいているように見えました。頭をねじり、体をねじり、命がけで必死に出てこようとする姿に、自分は生命そのものが内在する強い意志を感じました。
新しい命が生まれるためには、自ら出ようとする赤ちゃん側の力も必要
時が満ちると、母体の子宮は陣痛という形で収縮しはじめ、赤ちゃんを外に出す準備をはじめます。時が満ちるまで、赤ちゃんは暗い子宮の中で少しずつ成長しています。狭く暗い場所から外界に通じる出口は、たった一つしかありません。
赤ちゃんの体は、小さい方が外界へ出やすいのはもちろんですが、体が小さいと体力も不十分で、子宮の守りがない外の空間に出ることは命を失うほど危険な状態かもしれません。
ただ、あまりに体が大きくなってしまうと、そもそも外界に出られなくなるかもしれません。そうした絶妙なバランスを、赤ん坊と母体とは無意識の中で相互にやり取りをするように、生まれてくるタイミングを絶妙に見計らっているように思います。
母体の子宮は収縮し、外へ通じる出口へと新しいいのちを運ぼうとしはじめますが、ただそれだけでは外に出ることはできません。新しい命は、体を微妙に回転させ、全身を波打つようにねじりながら、出口へ通じる道に対して自分の体を最小限にし続けながら外に出てくる必要があるのです。
そこでは、母体の力だけではなく、自ら出ようとする赤ちゃん側の力も相互に協力することが前提になっています。生まれたての赤ちゃんには産毛が生えていて、「けもの(毛もの、獣)」としての人間の歴史を感じさせてくれるものです。
生後は産毛が必要なくなり、「毛もの」から卒業して布や衣服を身にまとうことになりますが、こうした胎児期の産毛も、狭い産道をなんとか自分自身の力で出ていくために、摩擦を最小限にして安全に出ていくための生命の知恵の一つかもしれないと思いました。