そして、主人公のナターシャは「幸せになりたい」という強迫観念に囚われているようで、同僚の若いウェイトレスとたびたび衝突してしまう。「あなたは愛を知らないから不幸なのよ」「私は若くて綺麗よ」などと互いにマウントを取り続け、後には2人で酒を飲み交わすのだが、そこでも不協和音が生じてしまう。ただでさえ息苦しいソ連全体主義の中で、ナターシャは「なんで私はこんなに不幸なの?」と嘆き悲しむことになる。
これはいつの時代であっても、普遍的な物語でもあるだろう。厳しい社会環境に苦しんでいたことで、二次的にその人も身近な誰かに辛く当たってしまい、自らをさらに不幸にしてしまう。ナターシャの心理を丹念に追って行けば大いに感情移入ができるだろうし、他人事だとはとても思えない人も多いはずだ。
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トーンは全く異なるが、この「苦しい時代での普通の人の日常を切り取る」という点は『この世界の片隅に』(2016)にも近い。もしくは、全体主義的な価値観がまかり通る世界で悲劇に見舞われるという意味では『火垂るの墓』(1988)も彷彿とさせた。戦争や圧政の中心的な人物(権力者)ではない、市井の人々の姿をリアルに示し、観客にも擬似体験させてくれることにも、本作の意義がある。
ネタバレになるので詳細は控えるが、終盤の「尋問シーン」はスクリーンから目を背けてしまいそうなほどにショッキングなものだ。実際に批評家からその過激さが議論の的になり、批判を浴びた。
しかし、批判に対し映画スタッフたちは「すべての俳優が彼ら自身の自由意志でそこにいて、彼らが望むときはいつでも撮影を止めることができた」と答えている。 主人公のナターシャを演じるナターリヤ・ベレジナヤも、「私たちは自分たちがしていることをよく理解していましたし、望んだ場合は自発的に撮影を止めることも可能でした。セリフは即興でしたが、すべての行動は事前に話し合われました」とはっきりと述べている。
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映し出されているセックスとバイオレンスがいかにリアルであったとしても、十分に参加者への配慮が行われている、(当然だが)その一線だけは超えないようにしているのだ。誰もが酷いものだと思えるその尋問シーンは、主人公のナターシャの苦しみと、そして精神的な強さを示すために、間違いなく作品に必要なものであった。